東大阪の学び場|マナビー

第5回「私とは何か」
浜田 寿美男 著(講談社選書メチエ)

講師:居細工 豊

第二章
ひとまずゼロに戻ってー発達論的還元

3.人と人を区別する


看人の顔を区別するということ

私たちがごく当たり前にやっていて、当たり前とさえ気づかないこと。その例をいま少しあげておきたい。じっさいそれらは、あえてこうして指摘しなければ、その存在にさえ気がつかない。
私たちは人の顔を一人ひとり区別して、いろいろな人たちと人間関係を結んでいる。
では人の顔を私たちはどのようにして区別しているのか。そう考えると不思議である。
じっさい人間の顔は、一人ひとり違うと言えば違うが、その目鼻立ちのつくりそのものに大差はない。目が二つで、そのうえに眉毛、両目の中間から下方に鼻が隆起していて、先端に鼻孔が二つ、さらにその鼻の下には両唇を重ねた口が一つ。その外形は誰もが同じで、差はむしろ微妙なものでしかない。何万人もの人がいれば、そこにはよく似た人がいくらもいるが、なのに私たちはそれをほとんどまちがわずに区別できる。それはどうしてなのであろうか。

たとえばよく似た人を前において、あの人とこの人とどこが違うか口で言いなさいというと、これがけっこう難しい。なのに一卵性の双生児でもなければ、まずたいていははっきり区別して、間違えたりはしない。
それに男女の顔の区別もおもしろい。
おとなの顔であれば、私たちはそれを見ただけで、男か女かをわかる。髪型とか化粧とか、文化による男女差が手がかりにならないよう、素顔で、その中心部分だけを枠で囲って、それ以外の部分を見えないようにしても、九割がた正しく言いあてることができる。
赤ちゃんの場合はときどき男女が少々まぎらわしい場合があるが、おとなの顔はまず間違わない。
しかしこのときも、男女の顔の違いを口で言いなさいというと、誰もこれという具体的なかたちでその差を指摘できないのである。

人は、もちろん男か女かというだけでなく、一人ひとりの顔を区別する。
この個体識別が人間の社会構造の形成に非常に重要な役割をはたしていることは、ちょっと考えればわかる。
個体識別ができないとすると、出会った人とそのときかぎりの関係を取り結ぶことはできても、時間的に持続する関係をつくることができない。
一度男女で対をなしても、いったん離れてしまうともう今度会ったとき、それが前の人か新しい人かもわからなくなるのだから、夫婦関係を持続させることも、家族関係を形成することもできない。そうなれば出会う人、出会う人、みな一期一会、たがいにいつも白紙から関係するとも言えそうだが、そううまくは運ばない。いかに日々新鮮に見えても(いや個々の識別ができなければ新鮮かどうかすらわからない)、じっさいには個体識別がなければ、そもそも人間社会そのものが成り立たない。

生きもののなかにはこの個体識別ができないものも、もちろんいる。たとえばアリやハチは、女王バチとか女王アリとか特別の位置にある個体を別にすれば、たがいを区別してはいない。それゆえそこに成り立つ社会構造は、群れ単位のものでしかなく、個体単位の関係を築くことができない。
これらの生きものの社会と比べたとき、わたしたちの人間社会がいかに個体識別によって支えられているかに、あらためて気づかされる。

妻を帽子と間違えた男

こうして私たちが日常、何気なくやりこなしている個体識別も、それを支えるメカニズムがあってはじめて成り立つこと。逆にいえば、このメカニズムが損なわれれば、個体識別の機能もまた損なわれることになる。

失認症という障害がある。
それは、脳のある部分が損傷を受けたとき、ものの認識がなくなるというもの。といって感覚機能そのものが失われるのではない。

たとえば視覚失認を例にとれば、目で見て、ものは見えている。つまり全盲とか弱視とかいう視覚障害とは違って、たとえばボールを見せれば、そのものは見える。その証拠に、ボールをその人に向かって投げれば、これをよけることができる。
ところがそのボールを見せて、これは何ですかと尋ねると、これがわからない。
単に「ボール」ということばがわからないのではなくて、それが何をするものか、どういうふうに使うものなのか、そのものとしての意味がわからないのである。
視覚の感覚能力はあるのだが、その認識が失われている。それを視覚失認症と言う。

この視覚失認症の一つのタイプに相貌失認というものがあって、この場合、人の相貌(顔つき)がわからなくなる
顔つきがわからないといっても、いろいろ程度がある。笑っているとか泣いているとかいう表情がわからなくなるケースもあれば、人の顔の区別が全然つかなくなるケースもある。もっとひどくなると人間の顔と動物の顔を区別できない。犬を見て、ずいぶん毛深い人だと思ったなどという、まるで冗談のような話もある。
それがさらに極端になると、顔というものそのものがわからなくなる。 アメリカの脳神経科医であるオリバー・サックスが書いた『妻を帽子とまちがえた男』(高見幸郎・ 金沢泰子訳、晶文社)には、その見事な例が描かれている。冒頭、この男のことが次のように紹介されている。

Pはすぐれた音楽家だった。長年声楽家としてよく知られ、それからあと、地方の音楽学校で先生になった。ここで生徒の相手をしていたときのことだ、いくつかの奇妙なことがおこりはじめたのは。ときおり生徒が前に現われても、彼はそれに気づかないのだ。相手の顔がそこにあっても、誰だかわからない。生徒がなにかをしゃべると、その声で誰だかわかるのだ。こうした出来事がたびかさなるにつれて、困惑や、気まずさや、不安が増大した。

ときには喜劇も生じた。 相手の顔がわからなくなったばかりでなく、相手もいないのに、誰かそこにいるかのようにふるまいはじめたのだ。町を歩いていて、消火栓やパーキングメーターを見ると、子どもたちの頭であるかのように、それをぽんとたたくのである。家具のノブの彫り物にむかって愛想よく話しかけ、応答がないのでびっくりしているふうだった。はじめのうち、こうしたまちがいは笑ってすませられていた。P自身も笑っていた。

しかに奇妙なまちがいをいっぱいおかすのだが、それはまるで冗談のようで、最初は誰も深刻には受けとめなかった。これ以外のところではPはいたって健康だったからである。
問題が表面化したのは彼が糖尿病にかかってからのことである。

糖尿病になると眼の障害を来たしやすいことを知っていたPは眼科医の診察を受け、眼はなんともないけれど脳神経系に異常があるらしいとのことで、脳神経科の専門医であるサックス先生を紹介されたのである。

Pは妻に付き添われてサックス先生のところにやってくる。会って話してみると、対応はスムースでユーモアたっぷりに知的な会話が交わせるのだが、話しているとき目が合わない。
ちゃんと正面を向いて顔の方を見てくれているのだが、視線は耳に行ったり、鼻に行ったり、顎に行ったりして奇妙なのである。
神経学的検査のために靴を脱いでもらったときなど、終わってからいざ靴をはこうとすると、すぐ足元にある靴がわからない。
あげくは自身の足を見て「これが私の靴ですね」などと言ってしまう。 そんな奇妙なことがいろいろあって、いよいよ検査もおしまいというところで、次のような場面が演じられる。

私は呆然とした顔つきになっていたにちがいない。だが彼は、立派な答えをした気になっていた。
彼の顔には、微笑がうかんでいた。テストは終了したと思ったのだろう、帽子をさがしはじめていた。
彼は手をのばし、彼の妻の頭をつかまえ、持ちあげてかぶろうとした。
妻を帽子とまちがえたのだ!

妻の頭を帽子とまちがうなどというのはとんでもないことであるように見える。
しかし逆に私たちはどうして妻の頭を帽子とまちがえたりしないのか。
妻の顔を帽子と区別して顔として認めることができるのはどうしてなのか。
そう問うこともできる。またそう問うことではじめて、個体識別の不思議さも見えてくる。
私たちはそうしたいくつもの不思議に支えられて、いまの当たり前を生きているのである。

自分の足はどうして自分の足か

もう一つだけ例をあげる。

自分の足はどうして自分の足なのか?
これもまた当たり前すぎるほどのこと、しかし根拠をさぐるとよくわからなくなる。
自分の足は自分の胴体からつながっている。だから自分の足だ。そう答えたとして、では自分の胴体はなぜ自分の胴体なのか。

半側性疾病失認という病気がある。自分の身体の一部がマヒする。しかしマヒしただけならば、まだ自分の身体ではある。自分の身体なのだが、それがマヒしているのだ。
しかしこのマヒした身体の部分が自分のものではなくなってしまうことがある。オリバー・サックスの『妻を帽子とまちがえた男』のなかには、こんな症例も描かれている。

彼はその日の朝、検査を受けるために入院した。自分ではどこも悪いところはないと思われるのに、神経科の医者たちは、左足の動きがすこし「にぶっている」ようだから入院すべきだと考えたようである。
その日一日は彼はいたって快調で、夕方になって眠った。
目がさめたときも、同じように気分はよかった。
だがそのあと、ベッドのなかで体を動かしたところ、「誰かの足」ーーー彼はそう思ったーーーがあるではないか。
切断された人間の足。
なんと恐ろしい!最初彼は、おどろきと嫌悪で呆然となった。
こんなことは経験したこともなければ、想像したこともなかった。
彼はおそるおそるその足をさわってみた。まちがいなく足のかたちをしている、だが 「じつに奇妙で」つめたい。

その日はちょうど大晦日で、病院の中でも新年を祝ってみんなが飲んで騒いでいる。そこで彼ははたと思いつく。誰かがたちの悪いユーモアのつもりで、解剖室から足を一本盗んで、自分が寝ているあいだにそれをこっそりベッドに押し込んだにちがいない。それにしてもいたずらにしては度がすぎる。そう思って、彼はそのいまわしい足をつかんでほうり出したのである。ところがそこでパニックを起こしてしまう。

彼がその足をベッドからほうり出したところ、彼までがそのあとにつづく破目となり、そして、なんとその足は、いま彼の足にくっついているではないか。
(パニックを起こして大騒ぎをしている彼のところに駆けつけたサックス先生に)「これを見てください!」と彼は嫌悪感を顔いっぱいに浮かべて叫んだ。
「こんな気味の悪い、恐ろしいものを見たことがありますか?これ、死体についていた足ですよ。
気味が悪いったらありゃしない。こわい話です、いやらしいったらありゃしない。私にくっついちやったみたいなんです」
彼はそれを両手でしっかりつかまえると、がむしゃらな勢いで、それを自分のからだから引き離そうとした。
それができないとわかると、今度は怒り狂ったようになぐりつけた。

ここでサックス先生は彼に、そのなぐりつけている足はあなたの足ですよと説明するのだが、彼は納得しない。
そこで「もしこの物が、あなたの左足でないとしたら、あなたの左足はいったいどこにいったのですか」とさらに問うと、彼は青ざめて「ぜんぜんわからないんです。消えうせたんです」という。

還元の意味

これはまるでありえない不思議な話であるように見えるかもしれない。しかし、じっさいにあった話であるし、まためったにないめずらしい話でもない。そうしてみると、私の足だとか手だとか思っている、それはいったいどうしたことなのかということが、りっぱな問いとして成り立つことがわかる。

多くの人は、私の意志でもって動くからそれは私の手だ、私の足だというふうに答えるのだろうが、それだけならば先にも述べたように、手や足がマヒして私の意志で動かなくなったそのときから、私のものではなくなってしまうはずだが、一般にはそのときなお「私の手」「私の足」であって、それが「いうことをきかない」にすぎない。

それにまた生まれつき身体の一部がマヒしている脳性マヒの人たちも、マヒしたその手足が彼ら自身の手足になる。それはどうしてなのだろうか。さらに言えば、私たちも生まれてしばらく手足の自由がきかず、不随意に動いていた。そこからはじまって手足をはじめとして身体が自分のものになってきたのである。

当たり前だと思い込んでいることを、ゼロの地点にまで引き戻して問うことによってはじめて見えてくることがある。
その問いに、いまいちいち答えようとは思わないし、また答えようとしても答えられない問いのほうが多い。
しかしそれはそれでよい。
人は卵からはじまった、そのゼロのところから見つめなおすことで、当たり前をいったん還元することの意味を、ここで促えてもらえば十分である。

東大阪の学び場|哲学の教室

以下は、今回の宿題「以下の文章(※ゴルギアステーゼ・本体論の解体・内的世界の意味等について)引用した文章を参考にして「当たり前だと思い込んでいることを、ゼロの地点にまで引き戻して問うことによって初めて見えてくることがある。」というように、筆者が言っている還元することの意味と価値を述べよ。」を基軸にして、「私とはな何か」第二章までをまとめました。

おさらい
Pick Up!

還元の基本構造

還元することの意味と価値

従来の認識

みんなが持っている固定概念

還元

自分の「当たり前」を横に置いて、
ゼロからの視点で、
物事を「そもそも」と問い直す

本質洞察

新たな気づきを得て、意味の再構築を行う


還元することで見えてくるもの(事例)

認識論の還元

認識論

ゴルギアスが言うように「存在」、「認識」、「言語」の厳密な一致はありえない。しかし、にもかかわらず、普遍洞察の方法が有効であり、普遍認識のありうることを証明、論証できるとすればどうだろうか。ここから出発しよう。

『ゴルギアステーゼ』

本体論の解体( ニーチェ )

ニーチェの新しい存在論の要諦:
世界はそれ自体として「存在」してはいない。世界は生き物それぞれの「力」によって分節されつつたえず「生成」する。
それぞれの生き物の「生成の世界」がまずあり、その集成として「客観世界」(存在自体) が定立される。

『本体論的転回・認識論の解明の鍵』

実存範疇(生き物それぞれ)意味・価値の生成の構造

実存範疇(はんちゅう)としての意味と価値の生成の基本となるモデルは、対象の知覚、情動-衝迫、目的指標、判断、企投、試行といった生き物における「内的な心的セリー(心的な事象系列)の生成」の構図である。われわれはここで、「意味」を、生き物の内的な心的セリーのうちに現われる、生き物自身の世界了解の分節性、と定義することができる。

『内的(実存)世界の【価値・意味】生成』

【人間や社会の領域】での普遍認識とは

人間や社会の領域は認識論的にも存在論的にも、集合的な関係幻想の領域、それぞれの「内的実存」の世界の関係が創り出す間主観的な共通確信の世界である。個々の主体は自分だけの「内的体験(欲望相関的)」の世界を生き、それらはみな異なっている。だが人間は、言語ゲームによって「内的実存」の世界を互いに交換する。その結果、誰もが、自分が他人と「同じ一つの世界」を生きているという暗黙の確信を形成するのである。そのことを我々は「確信 - 認識」として定義している。そして「普遍的な間主観的共通了解の成立 – 認識」を、われわれは普遍的認識、あるいは客観的認識と呼んできたのである。

『現象学的態度で観る「普遍認識」』

竹田青嗣著「新哲学入門」より抜粋編集

従来の認識

「存在」「認識」「言語」は存在本質が異なるゆえに、
その間の厳密な一致はありえず、それゆえ正しい認識は不可能である。

普遍認識の不可能性

現象学的還元

絶対的な客観的実体・事実は存在せず、
あらゆる認識行為は“主観的な確信”である。

『現象学的還元』

本質洞察

世界観の領域では、厳密な一致はそもそも不可能。
しかし、我々はそれぞれの主観を交換し「間主観的共通了解を成立」させている。
それを普遍的認識、あるいは客観的認識と呼んできた。

普遍認識の可能性

ことば観の還元

「身体」と「ことば」の対話性

身体とことばを共通の糸でむすぶのは、おそらく対話性である。とすれば、ことば自体のもつ「対話性」の切口を離れて、「身体とことば」のかかわりを見てとることはできない。従来の〈語―文法〉的ことば観においては、ことばが身体性に接続する土俵がまったく見えないように、私には思える。

私たちは、「生身の身体で生きているこの生活世界」において、自分からの視点を持っているだけでなく、しじゅう周囲の他者のパースペクティブに自分の視点を重ねて生きている。

だからこそ「ことばの世界」においても、それと同型のパースペクティブの置換が成り立つ。
それゆえ、「誰かの身体から発することば」として、いつもことばは「対話」へと立ち上がろうとする

我々は、この「身体で生きている時空世界」と別に、言葉によって「もう一つの時空世界」を立ち上げ、二つの世界を織り合わせて、独特の生活世界を生み出してきた。

「「私」とは何か」より抜粋編集

従来の認識

ことばは〈語と文法からなるシステム〉。
「語と文法的装置の獲得」がことばの育ちである

〈語―文法〉的なことば観

還元

ことばは、本来、身体をもつ生身の人間どうしのあいだに交わされる対話である。
ことば自体のもつ対話性の切口を離れて、身体とことばのかかわりを見てとることはできない。

本質洞察

他者と視点を重ね、ことばが立ち上がる
自分のパースペクティブ(視点)と他者のそれを重ねる私たちは、ことばを「対話」として立ち上がらせる。
「身体で直接に生きる世界」とは別に、「ことばで独自に開く世界」を立ち上げているのが、ことばの対話性。

「対話性」を中心に置くことば観

発達論的還元

人間の「心的世界の基底」にある現象の不思議

人はもともと卵だった。 あえてそのゼロにまで還ってそこから見てみると、卵からはじまった人間が、どうしてこんなにややこしい複雑なことがやれる生き物になったのだろうかと、心底不思議な気持ちになる。そうした発想でもって、人間の現象をもう一度見直してみようというごく素朴な発想を、私はここで発達論的還元と呼んでおく。

当たり前のことを不思議に思うようになった、きっかけは「障害」との出会いであった。
それは、あまりに当たり前でふだん問題にもしないこの現象が、人間の心的世界のもっとも基底にあるということに、あらためて気がつく、還元の大きなきっかけとなった。
人は種々の条件を背負って、その条件の元でそれぞれが生きている。 みんな同じ人間だけど「みんな違う」。

「「私」とは何か」より抜粋編集

従来の認識

見える・喋ることができる・わかる

当たり前
(完態からの視点)

還元

かぎりなくゼロに近いところからはじまって、卵が形成され、
受精し、受精卵となったものが徐々に大きくなってきて、この世の中に生まれ出た。

還元
(ゼロからの視点)

本質洞察

外と内を区別して見える
ことばが喋れる
ものを適切に認識できる

当たり前でない『不思議』

人は人それぞれの条件の元に生きている。
みんな「同じ」人間だけどみんな「違う」

宿題

設問.1

以下の⽂章を参考にして、本⽂中にある失認症という障害の発⽣原因を述べよ。

*ところで、いま示された素朴な生き物の「内的世界」における価値生成についての本質洞察は、あくまで仮想的なものであって、私の直接体験に定位してなされた本質洞察ではない。
しかしこの想像変様的本質洞察は、あくまで「現前意識」に定位する本質洞察にその根拠をもっており、そこで観取された洞察を仮想的に拡大して示したものである。
この洞察からわれわれは、実存範疇(はんちゅう)としての意味と価値の生成の構造についての本質洞察を仕上げることができる。

基本となるモデルは、対象の知覚、情動-衝迫、目的指標、判断、企投、試行といった生き物における内的な心的セリー(心的な事象系列)の生成の構図である。
われわれはここで、「意味」を、生き物の内的な心的セリーのうちに現われる、生き物自身の世界了解の分節性、と定義することができる。

『新哲学入門』第3章の3意味と価値の本質学より引用

設問.2

以下の文章と設問.1で引用した文章を参考にして、本文中にある、「当たり前だと思い込んでいることを、ゼロの地点にまで引き戻して問うことによって初めて見えてくることがある。」というように、筆者が言っている還元することの意味と価値を述べよ。

本体論の解体 ー ニーチェ
*ゴルギアスが言うとおり、「存在」、「認識」、「言語」の厳密な一致はありえない。しかし、にもかかわらず、普遍洞察の方法が有効であり、普遍認識のありうることを証明、論証できるとすればどうだろうか。ここから出発しよう。

「新哲学入門」第二章哲学と認識問題より引用

回答のお手本

設問1. 対象の知覚、情動-衝迫、目的指標、判断、企投、試行といった生き物における内的な心的セリーにおいて、認識は価値-意味に基づいた知覚から行動までの連関に関する了解を指す。情動的な知覚や価値を基盤とした意味による世界分節がなければ、この認識は生まれない。
このことから、知覚から価値や意味の生成に至る何らかの心的または身体的な機能不全が、失認症という障害の発⽣原因だと考えられる。

設問2. 還元とは、自分の思い込みを取り去り、ゼロからの視点で物事を捉え直すという意味である。 ゴルギアスが言うように「存在」、「認識」、「言語」の厳密な一致はありえないと考えれば、普遍認識は不可能だという結論に至ってしまう。
しかし当然のように考えられている客観的な存在を疑い、人は其々の身体や欲望に根付く価値や意味によって世界分節をしているという視点に立つことで初めて普遍認識の可能性が生まれる。
このようにゼロからの視点によって新たな気づきを得るところに還元の価値がある。

回答のお手本2

設問1. 対失認症は、実存範疇としての意味と価値の生成の構造、つまり、対象の知覚、情動-衝迫、目的指標、判断、企投、試行といった生き物における内的な心的セリー(心的な事象系列)の生成の構図を失ったために発症したものだと考えられる。

設問2. ゴルギアスが言うとおり、「存在」、「認識」、「言語」の厳密な一致はありえない。しかし、にもかかわらず、普遍洞察の方法が有効であり、したがって、普遍認識は可能である。

そのためには、自然的態度をエポケーし、現象学的還元をしなければならない。
つまり、当たり前だと思い込んでいることを、ゼロの地点にまで引き戻す必要がある。
その後、「意味」を、生き物の内的な心的セリーのうちに現われる、生き物自身の世界了解の分節性と捉えなおすこと。
それが、還元することの意味と価値である。

参加者の回答

回答1

設問1. 認識するには、対象の価値と意味を了解しなければならない。
ボールを見て何をするものか、どういうふうに使うかがわからないのは、対象と自分とを繋ぐ思考プロセス(心的な事象系列の生成)に障害が起こることが原因と考えられる。
そのために対象に対して、実存的な価値と意味が立ち上がらず、適切な認識・対応ができない。

設問2. 我々は、脳を含む身体機能を使って物事を認識している。 身体機能は、人それぞれ違う。
また、我々は、身体機能に限らず、文化、知識、情緒、欲望、ありとあらゆる要素(経験)の総合によって、物事を認識している。 経験は、人それぞれ違う。
私たちは対象を「自分なり」に認識しているのである。私の認識しているものが、「真実(そのまま事実として存在する)」ではない。

また、こういう表現もできる。私が「思い込んでいること(認識)」と、Aさんのそれと、Bさんのそれは違う。違うにも関わらず、我々はそれを、同じ「言葉」で表現する。「言葉」の内的な「意味」は、人それぞれ違うのだ。だからこそ「正しさ」を競いあうのではなく、みんなが納得いく共通了解を作ることが大事なのである。

還元する意味は、「当たり前だと思い込んでいること」が「当たり前(正解)」ではないことを知ること。 そうすることで、偏見や差別、固定概念、自分の経験や意見に囚われることなく、他者への理解と興味や関心を深め、世界をより豊かなものにする価値が生まれる。

回答2

設問1. 我々は内的な心的セリーを通じて、対象となる事物に「意味」を見出す。しかし、失認症患者は、内的な心的セリーにおいて対象を知覚することは可能であるものの、情動-衝迫が生じず、目的指標が形成されないため、事物に「意味」を見出すことができず、それを認識するに至らないと考えられる。

設問2. 「存在」「認識」「言語」はその本質が異なるため、これらが厳密に一致することはなく、正確な認識は不可能であるとするゴルギアス・テーゼに対し、ニーチェは「認識する」とは何かを問い直した。彼は「認識」を還元し、普遍洞察を通じて普遍認識の可能性を論証したのである(本体論の解体)。このことから還元することの意味は、物事を「そもそも」と問い直すことであり、その価値は、普遍洞察を行うことが可能になる点にあるといえる。

回答3

設問1. 失認症の発生原因は個体識別機能のメカニズムが損なわれることが原因である。つまり、対象の知覚、情動―衝迫、目標指標、判断、企投、試行といった生き物の内的な心的セリーの生成ができず、生き物自身の世界了解の分節がなされないことが原因である。

設問2. 意味:当たり前だと思い込んでいることを一旦ゼロに戻すこと。
価値:今までの思い込みを捨て、普遍認識を得るための普遍洞察ができる状態になれること。

回答4

設問1. 本文中の「失認症」は「脳のある部分が損傷を受けたとき、ものの認識がなくなる」というものである。「参考」の文章に、意味と価値の生成は「対象の知覚、情動・衝迫、目的指標、判断、企投、試行」といった構図(モデル)を基本とすると説明されているので、「ものの認識がなくなる」失認症は、「対象の知覚」を失うことにより発生していると考えられる。(165)

設問2. 本文における「還元」の意味は、各人が個々の人生を歩む中で無意識のうちに取り入れた「思い込み」を取り去る作業のことである。その価値は、さまざまなことを「できるようになっている、今の視点」からものごとを見るのではなく、もともと「できていなかった、ゼロの視点」からものごとを見ることで、新たな気付きを得る可能性を確保できるところにある。(165)

回答5

設問1. ものに対する「内的世界」における価値生成についての本質洞察の結果である認識は、あくまで仮想的なものであって、直接体験に定位してなされた本質洞察ではない。そのため、なにかしらの脳への影響によって一連のメカニズムが損なわれれば認識は仮想的なため認識ができなくなるので失認症が発症する。

設問2. 意味:「内的世界」における価値生成についての本質洞察は、あくまで仮想的なものであって、私の直接体験に定位してなされた本質洞察ではないから。
価値:この想像変様的本質洞察は、あくまで「現前意識」に定位する本質洞察にその根拠をもっており、そこで観取された洞察を仮想的に拡大して示したものを本寸法にもどせること。

回答6

設問1. 以前ならそのものを見て欲望を感じていたものが、知覚はできるのにそのものへの欲望が突然発生しなくなってしまうことが原因だ。しかし、「妻の顔」や「自分の足」といったこれまでの経験から得た「概念」に対しての欲望は存在し、価値も存在する。

設問2. まず障がいをもつ人や、その人と関わる周囲の人々にとって、「障がいの根本原因を知ることで、自身の障がいについてや、障がいをもつその人のことを理解したい」という欲望がある。 筆者の言う「還元」の意味は、この欲望を叶える手段になることだ。 障害をもつ人にとっての「還元」の価値は、障がいの根本原因を知ることにより、自分の状態についての理解を深めることができることだ。 周囲の人々にとっての「還元」の価値は、障がいをもつ人の状態について理解を深められることで、その人の視点に立つことができることだ。

回答7

設問1. 「内的世界」における意味と価値の生成の構造の基本となるモデルは、対象の知覚、情動- 衝迫、目的指標、判断、企投、試行といった生き物における内的な心的セリー( 心的な事象系列) の生成の構図である。 失認症は、内的な心的セリーの生成において、なんらかの障害がおこることによって、意味と価値を生成することができず、生き物自身のそのつどの世界了解の分節ができなくなることが発生原因であると考えられる。

設問2. ゴルギアス・テーゼは「存在」、「認識」、「言語」の厳密な一致はありえないという普遍認識の不可能性を論証している。しかし、「厳密な一致が必要である」という前提を取り払い、「認識とは何か」という地平をゼロの地点にまで引き戻して問いなおすことによって、普遍洞察の方法が有効であり 、普遍認識のありうることを証明、論証できる。
還元とは当たり前だと思い込んでいることを、ゼロの地点にまで、引き戻して問いなおすという点で意味があり、世界了解の分節性を再構築できるという点で価値がある。