東大阪の学び場|マナビー

第13回「新・哲学入門」
竹田 青嗣 著(講談社現代新書)

講師:居細工 豊

キーワード
「価値」「意味」「時間」「空間」

第三章 2.方法としての本質洞察


*近代の人文科学の哲学的基礎をおいたのはオーギュスト・コントである。
彼は近代哲学の形而上学的傾向をきらい、人間と社会の領域の普遍認識の方法として、伝統的な哲学の方法に代えて、自然科学の方法を基礎とする「実証主義的思考」をおくべきと主張した(『実証精神論』)。
ここから、社会科学を中心とする近代の人文科学の諸学問が登場した。
だがコントは、自然世界と人文領域の世界の存在本質の差異を看過(かんか)し、「自然の数学化」という方法が、人文領域の普遍認識として無効であることを理解しなかった。
価値的領域は、定量的方法では捉えられない。
フッサールはこの事態の明瞭な自覚から、人文領域の認識を、実証的な「事実学」と区別して「本質学」と呼び、その方法的基礎を「本質観取」の方法に求めた。

「本質観取」は、 一切の認識を「確信」の構造として捉える「現象学的還元」の方法を、本質領域(人文領域)の認識方法として展開したものだ。
すでに見たように、現象学では、対象(たとえば目前のリンゴ)の現実存在を前提せず、それがいかにして存在確信として「構成」されるか(成立するか)を、意識の直接的内省によって検証する。
すなわち、対象の像が、知覚像 (顕在性、地平性、射映(しゃえい)性を伴った)として、また連続的な調和を維持して意識に所与されるとき、この対象の存在確信が不可疑的に成立する。
言いかえれば、丸く赤くつやつやした像がありありと意識に現われるとき、私はそこにリンゴの存在することを確信せざるをえないのである。
もっと複雑な事象を例にとろう。
たとえば複数の宗教的世界観のあいだでの信念対立、という事態が生じる。
この場合、どの世界認識(信念)が正しいかを検証することはできない。
現象学は、これらの世界認識が、いかなる理由で異なった信念として構成されるかについての本質構造を把握する。
そのことによって、自然領域の認識確信とは違って、宗教観や価値観の領域では世界確信は大きく成育環境に由来すること、そもそも「正しい」世界観や宗教観が成立しえないことを明らかにする。
こうした「世界確信」の構成の構造を経験意識の内省によって把握する方法が、「本質観取」の方法にほかならない。
人文領域を主題とする「本質学」の根本方法は、こうして、自然世界を現象のデータによって客体化する実証主義の方法ではなく、一切の世界確信の「構成」の本質構造を把握する「本質観取」の方法とされるのである。

*しかし、ここでわれわれは、人文領域の「本質学」の方法をより根本的に基礎づけるために、現象学の「本質観取」の概念を、欲望論的に、「本質洞察」の概念へと転移する。
その理由は、人文領域の普遍認識においては、なにより価値関係の構造の把握が重要だからである。
フッサール現象学は、一切の世界確信(認識)を、世界と対象についての意味の構成(ノエマ)として把握する。
たとえば、赤い、丸い、つやつやという知覚像の所与(ノエシス)は、「リンゴ」という対象意味(ノエマ)を構成し、「リンゴがある」という存在確信を成立させる。
しかし、この確信構成の構図からは、このリンゴはおいしそうだ、リンゴを食べたい、という対象の価値的確信を把握することはむずかしい。
人文領域における「関係世界」は、単なる対象の意味-認識の世界ではなく、むしろたえざる価値生成の世界にほかならない。
このため、人文領域の本質学の基礎方法としては、現象学の「本質観取」の方法は、さらに欲望論的な「本質洞察」の概念へと転移されるべき理由をもつ。
ここで重要となるのは、主体の内的世界におけるエロス的力動、快-不快、情動、欲望といった諸契機にほかならない。

*カントの『純粋理性批判』は、近代哲学における認識論の根本理論として、最も重要な達成の一つである。
カントの世界認識の根本モデルは、世界の「客観認識」を可能にする人間の先験的能力(感性、悟性、理性)がその主役となる。
だがじつは、カント以前の哲学者に、認識におけるエロス―情動契機の重要性についての洞察が見られる。
たとえばジョン・ロックはつぎのようにいう。

《もし私たちのすべての外部感覚ならびに内部思想から心地よさの知覚がまったく切り離されたら、私たちには一つの思想もしくは行動を他より選んだり、注意するよりぼんやりしているほうを選んだり、静止より運動を選んだりする理由はなにもないだろう》(ロック『人間知性論』 大槻春彦訳 [中央公論新社「世界の名著」版]、p88)。

外的知覚とともに内的な「情動」が生じなければ、人は、感じ、考え、行動する動機をもたない単なる認知機械のような存在となる。
ほぼ同じ直観を、エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤックはこう表現する。
周囲にあるさまざまな対象がわれわれの注意を引くのは、《もっぱら我々の気分・情念・状態、ひとことでいえば我々の欲求との関係次第なのである》(『人間認識起源論』(上)、古茂田宏訳、p70~71) 人間のみならず、生き物の世界認知にとって、その第一の契機となるのは、知覚ではなくむしろ情動の契機である。
欲望論哲学において、フッサールの「純粋意識」と「本質観取」の概念を、「現前意識」と「本質洞察」の概念へと位相変様すべき理由は、「情動」を世界構成の根本契機とすることによって、はじめて「価値」の本質論が可能となるからである。

第三章 3.意味と価値の本質学


*現代哲学は「言語論的転回」の名において、認識問題を「主観-客観」の問題から「意味と言語の一致可能性」の問いへと転換した。
しかし認識問題は解明されず、ただ独断論(厳密論理主義)と相対主義(論理相対主義)との定型的な対立の議論が続いただけである。
前者を代表するのは、ラッセル、ジョージ・エドワード・ムーア、モーリッツ・シュリック、アルフレッド・エイヤー、ルドルフ・カルナップなどの論理主義、これに対する論理相対主義は、クワイン、ファイヤアーベント、クーン、ポストモダン思想のデリダ、フーコーなどの名をあげられる。
ここでは、自己同一性、現前の形而上学、決定不可能性、自己言及など、多岐にわたるテーマが現われたが、その要諦は、ゴルギアス以来の、普遍認識の可能性と不可能性の対立的議論の反復にほかならない。
現代言語哲学では、総じて、相対主義哲学による普遍認識の不可能性の議論が優勢を保っていたが、近年、認知哲学、科学哲学、心の哲学、心脳論などの論争へと持ち越され(ドナルド・デイヴィッドソン、ヒラリー・パトナム、デイヴィッド・チャーマーズ、トマス・ネーゲル、ダニエル・デネット、ポール・チャーチランドなど)、ここではむしろ、実在論的一元論が実証主義的方法によって優勢を取り戻している。
最新の哲学世代である「新しい実在論」の流れも(クァンタン・メイヤスー、マルクス・ガブリエル、グレアム・ハーマンなど)、ポストモダン的相対主義思想への批判を含む、実在論の陣営からの巻き返しを意味する。

*現代の言語哲学の全体像を鳥瞰するには、ウィトゲンシュタインの前後期の二著『論理哲学論考』と『哲学的探究』の議論の推移をみるのがよい。
前者は、論理学主義を代表する仕事だが、後者はその完全な否定の議論だからである。
『論理哲学論考』の試みを要約すれば、「事実」の(最小) 基礎単位と言語の基礎単位とが厳密に対応するように論理学の規則を定める、という点にある。
つまり、事実と言語の双方を単位的に記号(デジタル)化(数学化)することができれば、ゴルギアスが否定した「認識と言語」の一致、つまり「意味」と言語の一致の可能性が現われるように思えるからだ。
しかしウィトゲンシュタインは、後期の『哲学的探究』では、『論理哲学論考』で設定した論理学的諸前提をすべて否定する。
ここでの議論は、形式的には、厳密論理主義に対する論理的相対化の方法をとっている。
ただ、すでに示唆したが、彼の哲学の核心にあるのは論理相対主義ではなく、むしろニーチェ、フッサールに通底する「認識-意味相関性」の観点である。
そのことは彼の「言語ゲーム」の概念によく象徴されている。
この独自の概念が示すのは、言語の「意味」とは、「語」に内在するものではなく「言語ゲーム」のうちで当事者のあいだの関係的了解としてたえず生成(消滅)するものだ、ということにほかならない。

*「意味」は、言語的な論理の規則によって構成されるものではなく、ただ人間どうしの言語的関係が生み出す了解性としてたえず生成する。
この「言語ゲーム」の概念は(現代哲学はこれも相対主義的にしか理解していない)、まず言語的な「意味」の本質理論として、現代相対主義のすべての議論をはるかに凌駕しているが、それだけではなく、人文領域の本質学においてきわめて重要な視点を提示する。
しかしここでわれわれは、言語的な「意味」の本質についての議論をいったん保留し、これをさらに遡行して、そもそも「意味」とは何であるか、という問いを立ててみよう。

*現代言語学は、「意味」を言語に内属する情報とみなす。
しかしこれはすでに客体化された意味の形態にすぎない。
意味の本質をより根源的な仕方でとらえるためには、欲望論的な「本質洞察」の方法によってこの主題に接近しなければならない。
「意味」の本質が何であるか。
われわれは、まずフッサール現象学の方法に則してこの問いを遂行し、そしてつぎに、これに対照しつつ、同じ問いを欲望論的な本質洞察の方法で考察してみよう。

*まず、「目の前に一つのリンゴを見る」という現象学の知覚体験の構図が、はじめのモデルとなる。
この体験のうちで「意味」はどのように生成するだろうか。
現象学的な本質観取ではこうなる。
いま私は目の前に一つのリンゴを見ている。
ここで、リンゴの現実存在はいったんエポケーされ、私の意識に赤く丸いものの像が視覚的に意識に所与されていることが出発点となる。
つまりありありとした顕在的像が、地平性や射映の性格をともなって、私の意識に現われている。
これらの知覚的諸要素が一定の条件を維持することで、「リンゴ」という存在の対象意味(ノエマ)が確信的に構成される。
またここから、一般的な対象確信は「ノエシス-ノエマ」の構造をもつこと、つまり意識に所与される(現出する)諸要素から「対象意味」(「リンゴ」)の確信が構成されるという構造が、観取される。
ただし、ここで「ノエシス」として確信-構成される対象意味は、対象の一般的な意味、「リンゴ」「果物」「食べ物」「事物」などである。
すなわちここでは、対象がもたらす価値、情動の契機は欠落している。

*いま見た対象の確信構成の構図を、さらに欲望論的に推し進めてみよう。
つぎのような場面を想定しよう。
私が部屋に入ると、机の上に美味しそうなリンゴがあるのを見る。
私はそれを食べたいと思い、しかし誰かが食べようとしておいてあるリンゴかもという思いがよぎって少し躊躇(ちゅうちょ)するが、とくに問題はないと思い直してこれを手にとって食べる。
さて、いまこの情動や価値を含む一体験の構造を、欲望論的な本質洞察の方法によって吟味してみよう。
まず、私の視野にリンゴの像が現われても、私がとくにそれに注意を向けなければ、この像は「リンゴ」があるという対象の一般意味だけを(前言語的に)与えて、私の注意はすぐに別のものに移ってゆくだろう。
しかし、私がたまたま空腹であれば、このリンゴの知覚像は「食べたい」という私の欲望、つまり情動-衝迫を喚起するかもしれない。
このとき私の注意はこの対象にとどまり、「リンゴ」を中心としてさまざまな新しい意味が生起してくる。
たとえば、美味しそうだ→誰かのリンゴか→だが食べてもよさそう……など(これらもほとんど直感的-前言語的意味であろう)。
しかしここで現われる意味は、先にみたような単なる対象の「一般意味」ではなく、私の「食べたい」という欲望に相関して生成する価値的な意味である。

*次のことが洞察される。
象徴的にいえば、私に一つのエロス的情動-衝迫(=欲望)が到来するごとに、私の「内的世界」に新しい世界分節が生じる。
それはまず、ある対象を私の欲望の対象として私に告げ知らせる。
つぎに、この対象と私の欲望の諸関係が、多様な意味の系列として分節される(リンゴを食べたいが、他人のものかも知れない、しかし食べてもさほど問題はなさそうだ等々……)。
ここでの意味の生成は、対象の「一般意味」を構成するだけではなく、対象の価値をめぐる関係的な意味の連関を生み出す。
そして、これらの意味の系列は、私の欲望とその強度を、この世界分節の絶対的な「中心」(遠近法)としてもつのである。

*読者は、いま示された対象体験の構図が、ニーチェの「力相関性」の構図と重なることに気づくはずだ。
ある対象を知覚し認知するという体験の本質は、現実的には、単に周囲の諸対象を「一般意味」として認識するということにはない。
われわれが現実的な世界を生きるかぎり、どんな体験も、対象の知覚を端緒としてたえずさまざまな情動-衝迫(欲望)が喚起され、この欲望の強度に応じてさまざまな実存的な企投が行なわれる、という構造をもっている。
この、知覚→情動生起 (欲望)→対象の価値-意味の構成→判断と企投(行動)、という連関こそ、生主体の体験の根本的な基礎構造にほかならない。
それゆえ、「意味」と「価値」の本質は、こうした体験の本質構造から洞察されねばならないのである。

*『欲望論』(第一巻)において私は、いま述べたような対象体験における価値-意味の生成の本質を、一つの思考実験として、原生的な生き物についての想像変様的本質洞察として示した。
ここでそれを簡明に再現してみよう。
アメーバがイヌほど大きければわれわれはそれを動物とみなすだろう、というジェニングスの証言をすでに見た。
このとき生物学者は、そこにエロス的力動(快-不快)の生起、衝迫、判断、企投、といった心的な系(セリー)の生起を直観しているといえる。
さらにわれわれは、この原生的な生き物に「遠隔知覚」と呼べるものを与えてみよう。
たとえば触手的器官は遠隔知覚の素朴な形態だが、視覚(光覚)はより高次な形態である。
遠隔知覚は、一般的に言えば、対象の「何であるか」を直接的な接触-感知に先んじて、つまり快-不快の予覚として与える役割を果たす。
それゆえ遠隔知覚の獲得は、生き物にとって、危険な刺激(不快-苦痛)を回避するだけでなく、滋養物の捕食という点からもきわめて大きな優位となる。
だが、おそらくもっと重要なことは、遠隔知覚は、生き物の生に世界の新しい次元性、すなわち時間性、空間性という次元を与える、という点にある。

*生主体が高度な「遠隔知覚」をもつやその生きもの「世界」の様相は一変する。
遠隔知覚は、第一に、対象との「隔たり」をつねに問題として示し、そのことで「世界」は、対象とその背景という構図、モーリス・メルロ=ポンティのいう「地と図」の構図として分節されることになる。
メルロ=ポンティは「地と図」の構図を知覚の本質として位置づけたが、それは、遠隔知覚が創り出す世界の遠近法的構図、すなわち問題の中心としての対象とその周囲世界との分節、という構図の生成を意味している。
遠隔知覚は、対象の「何であるか」(快か不快か)を直接の接触に先んじて認知し、そのことで、対象との「隔たり」とともにその「方位」をも分節する。
さらに、対象との隔たりは、この隔たりを埋める(あるいは拡大する)「身体」の能力を問題化する。
遠隔知覚の世界によって、生き物の「身体」は、対象を素早く捕食したり、そこから敏捷に逃れたりする能力(「能(あた)う」 Ich kann) としての重要性を帯びる。
このことが、生き物の「世界」を空間的、時間的世界として分節するのだ。
空間と時間は、カントが考えたように、観念の先験的カテゴリーなのではなく、遠隔知覚をもつ生き物の身体の相関者としての世界の構造にほかならない。

*時間性の本質についてはアンリ・ベルクソンの次の引用が象徴的である。
《一杯の砂糖水をこしらえようと思うならば、私はとにもかくにも、砂糖が溶けるのを待たなければならない》『創造的進化』松浪信三郎・高橋允昭訳、p27)と。
この言葉は、遠隔知覚をもつ生き物の世界の時間性の本質を端的に表現している。
生き物は対象を捉えるまで接近の努力を維持しなくてはならず、つまりその達成までは、欲望- 衝迫の内的ノイズ(快・不快)に耐えねばならない。
近づいてくる対象が把握できる隔たりに来るまで待つ場合にも、同じく欲望-衝迫のノイズに耐えねばならない。
時間の持続とは、欲望論的には、欲望-衝迫の内的ノイズに耐えるという内的体験それ自体である。
遠隔知覚が、生き物の世界を時間的-空間的構造として生成することによって、生き物の最も素朴なエロスの審級である「快-不快」は、一つの重要な変様をこうむる。
すなわち「快-不快」の情動は時間化されて、「エロス的予期-不安」という新しい情動の審級へと転移する。
あるいは、快-不快というエロス的審級の上に「予期-不安」という新しいエロス的審級が階層化される、というほうがよい。
人間のエロス的審級は、こうしたプロセスをへて本質的にエロス的審級の重層的な構造を形成してゆく。
われわれは後に、その展開をもっと詳しく追跡することになるだろう。

*ところで、いま示された素朴な生き物の「内的世界」における価値生成についての本質洞察は、あくまで仮想的なものであって、私の直接体験に定位してなされた本質洞察ではない。
しかしこの想像変様的本質洞察は、あくまで「現前意識」に定位する本質洞察にその根拠をもっており、そこで観取された洞察を仮想的に拡大して示したものである。
この洞察からわれわれは、実存範疇(はんちゅう)としての意味と価値の生成の構造についての本質洞察を仕上げることができる。
基本となるモデルは、対象の知覚、情動-衝迫、目的指標、判断、企投、試行といった生き物における内的な心的セリー(心的な事象系列)の生成の構図である。
われわれはここで、「意味」を、生き物の内的な心的セリーのうちに現われる、生き物自身の世界了解の分節性、と定義することができる。

*リンゴを見ることが、私に「このリンゴを食べたい」という情動-衝迫を喚起すると、それはまず、最終の目的「リンゴを食べること」(目的指標)を生成し、さらにこの目的の達成にいたるまでに「為されるべきこと」の諸連関についての了解を生み出す。
たとえば私がリンゴをそのままではなく皮を剥いて食べたいと思えば、まずキッチンへ行き、引出しや戸棚を探してナイフを見つけ、さらにナイフを上手く扱う、といった一連の行為、またそこでの優先性や順序性を了解する必要がある。
ここで、目的指標に達するために現われるいくつかの「~のために」の指示の系列が、手段的「意味」として現われるのである。
同様に、経験を積んだ船乗りにとって雲の重たく暗い色合いは嵐の予兆であり(暗雲は嵐を意味する)、それはただちに、彼に何をなすべきかについての一連の系列を指示する。
同じく、経験を積んだ医者にとって、患者の呼吸や顔色の状態の異変は、患者の差し迫った危機を意味し、また同時に一連の「為されるべきこと」を指し示す。
つまり、「意味」とは、根源的には、生き物に生じる対象の発見、欲望(情動と衝迫)の生成、企投と行為といった心的セリーのうちに現われる、「当為(何が為されるべきか)」の連関についての了解可能性にほかならない。

*では「価値」はいかに定義されるか。

価値と意味の生成は本質的に一つの事態であるが、価値の生成のないところに意味の生成はない。
つまり、本質関係としては価値の生成が意味の生成に先行する。
リンゴの知覚が「食べたい」という欲望を喚起するとき、リンゴの「意味」が欲望に先行するかのように見えるが、そもそも「食べたい」という価値の衝迫が一定の強度をもたなければ、リンゴにまつわる一連の「意味」連関自体が生じない。
主体に生じる欲望の強度が対象の「価値」を生成し、そこから意味の連関が現われる。
こうして、「価値」は、実存世界の本質的関係として、対象への欲望の強度の相関者であり、「意味」はこの強度が支える「当為」の連関の了解性、として定義される。
ニーチェはこう書いている。
《何で価値は客観的に測定されるのか? 上昇し組織化された権力量でのみである》と(『権力への意志』下、原佑訳、p196)。
「力の量」とは、欲望の強度にほかならない

*われわれは、欲望論的本質洞察の方法によって、「意味」と「価値」の実存論的本質を定義した。
およそわれわれのうちに一つの欲望が生じるとき、われわれの実存世界に、一つの新しい世界生成、つまり価値と意味の再編成が生じている。
また、われわれが何かを認識するとは、この価値と意味の再編成のありようを了解することにほかならない。
こうした内的体験世界の本質構造は、自身の体験世界を本質洞察するものには、必ず生の根本構造として観取され、把握されるものである。

*人間の世界は言語ゲームの世界であり、各人はこうした自己固有の生世界をたえず他者と交換しあっている。
この内的体験の相互的交換をとおして、「主観から主観へとはたらきかける一種の作用」として、すなわち一つの間主観的な信憑として、客観的に存在する「同一の世界」なるものがすべての人間のうちに成立する。
実存的な価値と意味は、個々人の固有の内的世界に現われる対象に関連する固有の価値と意味として生成する。
しかしこの体験が普遍交換されることで、対象の固有の(欲望相関的な)価値-意味は、対象の一般価値意味となる。
このとき、一個のリンゴは、私の固有の欲望から自立して、果物一般という客体化された価値と意味として世界のうちに存在するものとなる。
こうした事態のうちに、人間だけが、実存世界と客観世界という世界の二重性を生き続けることの本質的な理由がある。

第13回『新・哲学入門』著竹田 青嗣|講師:居細工 豊
第13回『新・哲学入門』著竹田 青嗣|講師:居細工 豊
おさらい
Pick Up!
人文領域(内的体験世界)の存在本質
4大キーワード 欲望論的本質 カント
価値

エロス審級
予期・不安

意味
時間

遠隔知覚
(身体的)

アプリオリ
先天的
(概念的)

空間
対象を感知した時「内的(実存)世界」に起こる
【価値・意味・時間・空間】の生成(消滅)

価値と意味

意味と価値 竹田 青嗣|講師:居細工 豊

リンゴを見る→「このリンゴを食べたい」情動-衝迫【価値】を喚起そのままではなく皮を剥いて食べたいキッチンへ行き引出しや戸棚を探してナイフを見つけナイフを上手く扱い、りんごを切るなど、目的指標に達するための指示の系列【意味】連関

われわれが現実的な世界を生きるかぎり、単に周囲の諸対象を「一般価値・意味」として認識するわけではない。どんな体験も、知覚すると同時に、何らかの情動-衝迫(欲望)を感じ、この欲望の強度に応じて思考や行動がなされる。
(知覚情動生起 (欲望)対象の価値-意味の構成判断と企投(行動)、という連関が起こる。)

※「企投」とは下記参照

時間と空間

時間と空間 竹田 青嗣|講師:居細工 豊

経験を積んだ船乗りにとって雲の重たく暗い色合いは嵐の予兆であり(暗雲は嵐を意味する)、
それはただちに、彼に何をなすべきかについての一連の系列を指示する。

遠隔知覚は、生き物の生に時間性、空間性という次元を与える。
対象の「何であるか」(快か不快か)を直接の接触に先んじて認知し、対象との「隔たり」とともにその「方位」をも分節する。 時間と空間が生み出す「予期-不安」によって、対象への情動-衝迫(欲望)は単純なものではなくなる。

授業参加者のマナビー

5歳の息子がいます。朝、幼稚園へ行く準備は、目の前にあるものをカバンに入れて、目の前にある服に着替えるだけ。
大人からすると、とても簡単なことのようなのですが、彼はいつも「何をしたらいいの?」と本当に困ったように聞いてきます。

今回の課題文を読んで、彼が「わからない」理由も、反対に、彼が悪戯をしようと思い立った時の、行動の素早さの理由も、理解できたような気がします。 彼の欲望(彼にとっての価値)がそこにあるか、そうでないかということです。

人は、「自分の本当の欲望」を持った時には、自然と意味が立ち上がり、当為(何が為されるべきか)も、自ずと理解できるのだろうと思いました。

「主観」の交換から生まれる「客観」
「実存」の交換から生まれる「客観」

人間の世界は言語ゲームの世界である。
我々は、それぞれの「主観」である「実存世界」を交換し他者と共有することで、客観的に存在する「同一の世界」なるものが信じられていく。 つまり、「一般価値意味」とは、それぞれ個人の「実存的価値意味」を、多くの人が言語ゲームの中で交換し合い、共通了解として作り上げられたものである。

※ここでは「主観」=「実存」=「欲望相関的」、
「一般」=「客観」として使用しています。

実存世界と客観世界という世界の二重性

ここに、人間だけが、実存世界客観世界という世界の二重性を生き続けることの本質的な理由がある。

言語ゲームと一般世界

ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の概念が示すのは、言語の「意味」とは、「語」に内在するものではなく「言語ゲーム」のうちで当事者のあいだの関係的了解としてたえず生成(消滅)するものであるということ。
「言語の意味は、言語の用法である」これは言葉には「固定された正確な意味」があるわけではなく、相手との関係性・共通認識・文化的差異など多様な環境下で、そこにいる人に「わかる・伝わる」ように言葉を使うことこそが、言語の意味を理解しているということである。

価値観・世界観も同様に、既存の「客観世界・一般価値」は人が作り上げてきたものであり、同時に「変わることのない普遍的正しさ」ではない。
我々は言語ゲームによって、みんなに「わかる・伝わる」ように言葉を使い共通了解を作っていくことで、それぞれが「大切にしている世界観」を他者と共有し合う可能性を持っている。

マルティン・ハイデガー

【被投的企投存在】 人間は「不自由でコントロールできない現実の中にいる」にもかかわらず、「可能性に向かい常に未来を自分で切り開いている」存在である。

被投性 – 投げ込まれた存在

被投性とは、私たちは自分の意思に関係なく生まれ、特定の時代・環境・家族に「投げ込まれて」存在していること。

・生まれる場所や時代、身体的な特徴を選べない
・家族、文化、社会的な価値観に囲まれている
・自分の過去や環境から影響を受ける

などのように、人間は「こうでありたい」という理想とは関係なく、すでにこの世界に「投げ込まれた」存在だということ。

企投 – 自分の可能性を未来に向けて投げる

企投とは、人間は常に、自分の未来の可能性に向かって投げ企てる存在であること。

・自分がしたいことのために行動を起こす。
・限られた状況の中でも、新しい可能性を見つけられる
・自分の人生を設計し、未来に向かって歩む力がある

このように、我々は過去や環境に縛られているにもかわらず、常に未来の可能性のために行為している。

宿題

設問

価値とは何か、意味とは何か、認識とは何か、課題文に即して、手短に答えよ。

回答のお手本 1

価値とは、実存世界の本質的関係として、対象への欲望の強度の相関者のこと。

意味とは、欲望の強度が支える「当為」の連関の了解性のことで、生き物に生じる対象の発見、欲望(情動と衝迫)の生成、企投と行為といった心的セリーのうちに現われる、「当為(何が為されるべきか)」の連関についての了解可能性にほかならない。

認識とは、この価値と意味の再編成のありようを了解すること。

回答のお手本 2

「意味」は言語的な論理の規則によって構成されるものではなく、ただ人間どうしの言語的関係が生み出す、了解性として絶えず生成する。 意味の生成は、対象の「一般意味」を構成するだけではなく、対象の価値をめぐる関係的な意味の連関を生み出す。そして、これらの意味の系列は、私の欲望と、その強度を、この世界分節の絶対的な「中心」(遠近法)として持つのである。 「意味」とは、根源的には、生き物に生じる対象の発見、欲望(情動と衝迫)の生成、企投と行為といった心的セリーのうちに現れる、「当為(何がなされるべきか)」の連関についての了解可能性に他ならない。

「価値」は、実存世界の本質的関係として、対象への欲望の強度の相関者であり、「意味」はこの強度が支える「当為」の連関の了解性、として定義される。

認識するとは、この価値と意味の再編成のありようを了解することに他ならない。

参加者の回答

回答 1

総理大臣のイスに座りたいという「欲望」「衝動」が「◯◯党総裁」に「価値」を付与する。
そして、総裁候補と目される面々が、料亭でそれぞれが有力者と見なす人物と密会・密談するという行動に「意味」が生じる。
これは「◯◯党ムラ」に生息するヒトビトに「共通了解」されている「認識」だ。

回答 2

価値とは、各人固有の欲望から生み出された世界分節の為の尺度のことである。
意味とは、価値を基盤とする世界分節のことであり、行動を起こす動機である。
認識とは、価値-意味に基づいた知覚から行動までの一連の体験の把握である。

回答 3

丸く赤くつやつやした像を目にしたことを例に、意味・価値・認識を説明してみる。

●客観世界(一般的な世界観)
【意味】「リンゴ」「果物」「食べ物」など、対象に内属する情報。
【価値】リンゴの値段など、有用性の尺度。
【認識】存在する物事を理解・把握すること。

●実存世界(生主体の極めて固有の体験に基づいた世界観でたえず生成(消滅)するもの)
【価値】「美味しそう・食べたい」というような、欲望の強度によって生じるエロス審級。
【意味】リンゴを食べていいかと考えたり、食べようと思うなど、目に入ったリンゴの解釈。
対象をめぐる、「当為(何が為されるべきか)」の手段的分節性。
【認識】丸く赤くつやつやした像の存在を目にした私の心的体験。言い換えれば、個々人の固有の「情動」を根本契機として生じる、価値と意味の連関を了解すること。

回答 4

「価値」⋯例えば、リンゴを見て「食べたい」という欲望の強度から生じるもの。
「意味」⋯価値を主にしている。例えば、リンゴ(丸く赤くつやつやした像)を見て美味しそうだ→誰かのリンゴか→でも食べてもよさそうだ。の一連のリンゴに対する思考自体のこと。
「認識」⋯リンゴ(丸く赤くつやつやした像)を見て「食べたい」と望み、行動に移すまでの一連の流れのこと。

回答 5

価値:実存世界の本質的世界として、対象への欲望の強度の相関者
意味:欲望の強度が支える「当為」の連関の了解性
認識:価値と意味の再編成のありようをを了解すること
近畿大学に進学するために本校へ入学する保護者と生徒。彼らにとって「60点」をとることは価値がある。なぜなら近畿大学に進学したいという欲望があるから。だから「60点」「検定取得」に意味がある。そして「60点」が近大進学の基準として認識されている。

回答 6

価値:実存世界の本質的関係として、対象への欲望の強度
意味:欲望の強度が支える「当為」の了解性
生き物の内的な心的セリーのうちに現われる、生き物自身の世界了解の分節性
認識:価値と意味の再編成のありようの了解