東大阪の学び場|マナビー

第20回「新・哲学入門」
竹田 青嗣 著(講談社現代新書)

講師:居細工 豊

キーワード
「無意識」「深層文法」

第六章 無意識と深層文法


3.無意識の本質洞察

*そもそも「無意識」なるものはあるのか、それともないのか。その存在は認識論的に証明されるのか。哲学的な観点からいえば、フロイトのいう「無意識」の存在資格は、ちょうどカントの「物自体」と似ている。カントの「物自体」(世界の本体)は、人間には認識不可能だが、しかし〝その存在を考えずにはわれわれの現実を説明することが難しいような何か〟といえるからだ。

だが、カントがこの領域を、ただ推論できるだけで決して認識されえない領域(可想界)と規定したのに対して、フロイトはそれを、実証的推論によって正しく認識されるものとして示した。しかし論理的には、深層心理学における夥(おびただ)しい「仮説」の乱立と対立は、カントの考え、つまり存在の推論は妥当だが認識は不可能という考えの妥当性を証している。

*欲望論の方法は、カントとも違って、一切の対象性を、実体的な存在確認としてではなく、現前意識における「確信」の構成として考察する。われわれはこの原則にしたがって、もう一度「無意識」とは何であるか、と問い直してみよう。

一般には、意識に定位する現象学の方法は、無意識の領域には迫りえない、あるいは無意識の存在自体を否定する、といわれる。しかしこれは誤りである。現象学-欲望論は、一切の対象認識を「現前意識」へと還元してその構成条件を吟味することで、さまざまな「認識-確信」がどのような妥当性をもつかを検証する。 それゆえ、無意識を一つの実体としては問わず、ただ、どのような現象と経験をわれわれは「無意識」の名で呼んでいるか、と問う。あるいは、われわれが「無意識」と呼ぶ現象と経験の本質は、どのような記述によって間主観的な妥当性をもつか、と問う。

*まず、つぎのようにいわねばならない。私が、私自身の性癖、性格、独自の嗜好、関係態度などに関して、私が自覚していなかったことを他者からの指摘、忠言、解釈などによって気づかされる、という体験。この自己の否定的なあり方についての指摘や解釈を、それまで無自覚だったものとして自ら認知し承認すること。こういう場合に、私は、その他者とともに、自分の「無意識」の存在を認めている。また、こうした了解を私と多くの他者が共有するとき、「無意識」の存在は間主観的な確信として成立する。 こうした事態は、私が、これまでの自己理解を超え出た自己のありよう(とくに否定的な側面)を認知し、受け入れ、それゆえ何らかの仕方でこれを改善しようとすることを暗に含んでいる。つまりそれは、私の肯定的な自己刷新の意志を含む一つの新しい自己了解を意味する。

あるいはこうもいえる。「無意識」とは、本質的に、自分の存在についての自己理解と他者の理解との「ズレ」の自覚として現われる観念であり(自分自身による気づきもある)、この「ズレ」を克服しようとする自己配慮を含んでいる。そうした事象-経験一般をわれわれはいわば「本体化」して、「無意識」と呼んでいるのである。

*自分についての好ましくない性癖や関係の態度を指摘され、それを承認し改善しようとするとき、人は新しい自己了解をつかもうとしている。 たとえば私は、治療者とともに、その原因を想定し、想定された原因に応じた何らかの試みを行なう。だが、この否定性は、肉体的な病とは違って明確に原因を把握することはできず、ただ想定することしかできない。にもかかわらず、私は、この想定された原因に対して何らかの仕方で働きかけようとする。そしてそれはある場合成功し、ある場合失敗する。これが心理治療の名で行なわれていることの全体像である。この試みは、しかしそれ以上の方法がどこにもないという点で理に適(かな)っている。

*動物に「無意識」は存在しない。動物にも無意識の行動がある、と言う場合、それは人間の視線にすぎず、動物自身にとっては無意味である。動物には環境世界だけがあり、一定の共有世界は成立しているが「客観世界」は存在しない。世界の一般化-客観化をもたらす言語ゲームをもたないからだ。互いに自己了解を交換しあう「関係世界」の存在しないところには、「無意識」という経験も現象も生じない。 私が私の「無意識」の世界を認め受け入れることは、自覚できなかった自己についての「他の理解」を承認し受け入れることであり、本質的に、自己了解の刷新であるだけでなく、一つの関係的な自己企投である。それゆえ、他人が自分に何を言おうとまったく関知しない人間にとっては、「無意識」は存在しない。「君には無意識がある」という言葉が意味をもつのは、われわれが自らを他者関係のうちにある存在として受け入れ、この関係性自体に関わろうとするかぎりにおいてである。私についての他者の理解や評価が問題であるのは、私が他者との関係世界を必要とし、その意味-価値の連関の状況のうちで生きるからである。

*実存するとは、つねに自己自身の存在が自己にとって問題であるような仕方で存在することである、という存在論哲学のテーゼは、欲望論的-実存論的に訂正されねぼならない。すなわち、実存するとは、他者にとっての私の存在が、つねに私にとって問題であるような仕方で存在することである、と。
われわれは誰であれ、誕生するやいなや、そのような関係的実存のうちに言語ゲームを介して投げ入れられる。人間の実存とは本質的に、関係的意識としての実存である。「孤独な実存」とは、近代社会が育てる自由な「自己意識」の中で可能となっている一観念にすぎない。

*「無意識」が存在するという信憑は、われわれの「幻想的身体性」(情動、欲望、関係態度、美意識、倫理観など)が、私の現在的な自己理解に本質的に先行し、かつ、それを超え出る仕方で存在しているという事実についての自覚と確信であり、またそうした自分の幻想的身体性に働きかけようとする関係的な存在配慮を意味する。つまり、「無意識」とは、なんら実体としての心の一部分あるいは領域なのではなく、本質的に、私の対他的な関系世界における「現実性」の一領域にほかならない。

*われわれのうちに「無意識」が存在し、それが意識を超え出た仕方でわれわれを規定している、と言うのはよい。しかし、この領域を、エディプス複合や去勢複合から形成される抑圧されたリビドーの領域であると主張するのは、哲学的には、一つの独断論、人間の関係的世界の本体化、その「物語化」にほかならない。 とはいえ、フロイトによって構想された深層心理学の理説は、すでに示唆したように、たとえば「物語」としての宗教が人間にとって大きな意義をもったのと同様に、現代の人間思想として重要な意義をもっている。そしてそれは、心理治療の方法としての意義をはるかに超えている。

フロイトの深層心理学(精神分析)は、近代哲学にとっての重要な主題、「心的なもの」の本質をいかに認識できるかという難問に対する果敢な試みであった。フロイトはこの問いに、一つの「物語的」理説によって応えた。それゆえその理説自体は、独断的で検証不可能なものとなった。 にもかかわらず、フロイト理論は、その独断的だが独創的でもある仮説をとおして、それまで誰も示しえなかった人間存在についての一つの「原理」を提示している。それは、フロイト理論を、個々の仮説の真偽においてではなく、その総体が示す人間思想として受け取ったときに明らかになる。

*以下に私は、フロイトの「精神分析」の理論が提示した新しい人間思想の核心を要約してみよう。

第一。フロイトによる現実原則と快感原則という分節、あるいは意識と無意識という分節は、人間が、自我-意識存在であるとともに欲望-身体的実存であることを示唆している。すなわちフロイト思想は、人間存在の本質を、はじめてエロス論的-欲望論的存在として規定した。

第二。物語的仮説という性格を取り払えば、フロイトの「無意識」の概念は、人間の欲望—身体の幻想的本質をきわめてよく表現する。 人間の身体は、環境世界に相関的な生理身体ではなく、言語ゲームを介した関係性のうちで生成する関係的身体(幻想的身体)である。フロイトは、この幻想的身体の生成のプロセスを、親子のエロス的な「対象選択」の関係として考えた。この洞察は正しい。すなわち彼は、人間身体のエロス原理は生理的身体の成長に規定されるのではなく、本質的に、関係世界における禁止と対象選択、すなわち幼児が経験する初期禁止と「誰から、どのように愛されるか」という問題を中心として構造化されると考えた。そしてこの事態を「エデイプス複合」と「去勢複合」の仮説として表現した。 フロイトの「リビドー」の概念は、人間の欲望が関係感情へと向かう本性をもつことをよく表示している。

第三。人間の幻想的身体のこうした構造化のプロセスを、欲望論的には次のように言いかえることができる。言語ゲームに媒介された禁止と対象選択の関係的な体制が、人間の身体性を動物的身体性から離陸させ、関係的な「エロス的身体性」へと変様させる。だがこの過程は、人間にとって完全に意識されえない過程として展開する、と。

第四。フロイトの精神分析の理論は、人間の幻想的身体の形成の構造を言語的な分析によって何らかの仕方で自覚されうるものとして示す。またそのことで、人間が自覚されえない「幻想的身体」の体制に対して自覚的な対処-操作可能性をもつこと、つまり主体としての態度をとりうることを示している。「精神分析」とは、人間が言語と「物語」によって、自己の幻想的身体性に対して主権的態度をとりうる、という理論なのである。

*近代哲学は、「社会」を諸ルールによって構成された構造として把握する方法を創出し、そのことで歴史上はじめて、社会を人間にとって対処-操作可能な対象として表現した。フロイトの深層心理学は、これと同じことを、人間の「心」について果たしたのである。

哲学の部屋|講師:居細工 豊
おさらい
Pick Up!

本体論・独我論の帰結

バツ信念対立が生まれる

特に人文領域で、「実体的な存在があることを前提(本体論)」に、その本体(中身)を目指す、推論や仮説は必然的に多様になる。また、その検証不可能な独我論が乱立することで「信念の違う者同士の対立」に繋がることがある。例は、宗教戦争、ポストモダン的主張、平行線の論争など。

相対主義の帰結

バツ批判はするけれど、代替案や自分の意見がない

「ものごとは見方を変えると何とでも言える」「正しさなんてどこにもない。」と主張することで、相手の意見を批判するが、自分の意見がない。普遍性・妥当性を認めない結果、お互いの意見を交換し、共有し、調整し、新しい考えを作り上げていく土台を育てることができない。

欲望論の方法(ルール)

① 本体論を置かない 実体的な存在としてではなく、一切の認識対象を、現前意識における「確信」の構成とする。
② 構成条件を問う 認識対象を成り立たせる構成条件の考察をする。
③ 普遍的認識をめがける 現象と経験の本質は、どのような記述によって間主観的な妥当性をもつか、と問う。

欲望論の帰結(目指すところ)

まる相互承認とエロスの共生

人は誰でも、それぞれの生育過程で得た価値観や感受性、文化的ルール、それぞれの経験などが染み込んだ身体を通して、ものごとを認識をしている。絶対的な正しさを求めたり主張したりするのではなく、「普遍的(いつでも、どこでも、誰にでもわかる)に言えること」を考えながら、問題解決・共通了解を目指し、他者と親和的な関係を築いていくことが大切。

人文領域での普遍的認識とは

フロイトの「無意識」

バツ

われわれのうちに「無意識」が存在し、それが意識を超え出た仕方でわれわれを規定している、と言うのはよい。

バツ

しかし、この領域を、エディプス複合や去勢複合から形成される抑圧されたリビドーの領域であると主張するのは、哲学的には、一つの独断論、人間の関係的世界の本体化、その「物語化」にほかならない。

欲望論的「無意識」

① 本体論を置かない 「無意識」を一つの実体としては問わない
② 構成条件を問う

どのような現象と経験をわれわれは「無意識」の名で呼んでいるか。

・自分についての自己理解と他者の理解との「ズレ」の自覚として現われる観念。
・この「ズレ」を克服しようとする自己配慮。

③ 普遍的認識をめがける

われわれが「無意識」と呼ぶ現象と経験の本質は、
どのような記述によって間主観的な妥当性をもつか。

・「無意識」が存在するという信憑は、われわれの「幻想的身体性」が、
私の自己理解に先行し、超え出て存在している事実についての自覚と確信。
・また自分の幻想的身体性に働きかけようとする関係的な存在配慮。

人間の欲望の本質

人間の欲望の本質的対象は自然的糧ではなく「関係世界」を生きることそれ自身である。

第五章 幻想的身体論より

「君には無意識がある」という言葉が意味をもつのは、われわれが自らを他者関係のうちにある存在として受け入れ、この関係性自体に関わろうとするかぎりにおいてである。私についての他者の理解や評価が問題であるのは、私が他者との関係世界を必要とし、その意味-価値の連関の状況のうちで生きるからである。 実存するとは、「他者にとっての私の存在が、つねに私にとって問題である」ような仕方で存在することである。

「心的なもの」の本質

フロイトが示した「人間思想」の核心

1

人間存在の本質を、はじめてエロス論的-欲望論的存在として規定した。

2

人間の欲望が関係感情へと向かう本性をもつことをよく表す。

3

言語ゲームに媒介された禁止と対象選択の関係的な体制が、人間の身体性を動物的身体性から離陸させ、関係的な「エロス的身体性」へと変様させる。

4

人間が言語と「物語」によって、自己の幻想的身体性に対して主権的態度をとりうる、という理論

人間の「心」を対処-操作可能な対象に

近代哲学は、「社会」を諸ルールによって構成された構造として把握する方法を創出し、そのことで歴史上はじめて、社会を人間にとって対処-操作可能な対象として表現した。フロイトの深層心理学は、これと同じことを、人間の「心」について果たしたのである。

宿題

設問

本文に、人間の幻想的身体の構造化のプロセスは、完全に意識され得ない過程として展開するとあるが、完全に意識され得ない理由を述べよ。

回答のお手本

設問1 我々は、自分自身の性癖性格、独自の思考、関係態度などに関して、自分が自覚していなかったことを他者からの指摘、忠言、解釈等によって気づかされる。 この、自分についての好ましくない性癖や関係性の態度の指摘は、肉体的な病とは違って明確に原因を把握する事はできず、ただ想定することしかできない。 歩き方や話し方を経験的に習得してもその過程が意識されないのと同様に、人間は、幻想的身体性の形成プロセスや、固有の情動、欲求、欲望などの発生過程を自覚・記憶できない。 無意識が、カントの物自体同様、⼈間には認識不可能だが、しかし、その存在を考えずには、われわれの現実を説明できないような何かであるというほかないという事でもある。 つまり、無意識は、ただ推論(想定)できるだけで、決して認識されえない領域なのである。 別解 人間の幻想的身体が完全に意識されえないのは、なぜ 物理的な連関―組成である「身体」が、エロス的力動の原理を生み出すのかについては決して知ることはできず、ただ、到来的に告知されるだけであるから。

別解

物理的な連関―組成である「身体」が、エロス的力動の原理を生み出すのかについては決して知ることはできず、ただ、到来的に告知されるだけであるから。

参加者の回答

回答 1

人間の幻想的身体(情動、欲望、関係態度、美意識、倫理観など)は、母親を始めとする他者との関係性において、それまで自覚できていなかった自己について、他者がどのように理解し評価しているかを受け入れることで育成されていく。この育成過程において、「自己」についての自分自身の理解は、自分自身による理解と他者による理解とが「ズレ」ていることにふと気づくことで進んでいく、すなわち自分自身による理解は他者による理解を後追いする形になるという点で「完全に意識し得ない」ものであると言える。

回答 2

人間の身体は、親子の関係世界の中で言語ゲームを介して生成される幻想的身体であり、また関係感情のエロスに根付く禁止と対象選択の問題を中心に構造化される。しかしその過程は現前意識における間主観的な「確信」の構成要素として想定することでしか認識されず、完全に意識されることはない。これが人間の幻想的身体の構造化のプロセスは、完全に意識され得ない理由である。 /175文字

回答 3

われわれの「幻想的身体性」(情動、欲望、関係態度、美意識、倫理観など)は、私の現在的な自己理解に本質的に先行し、かつ、それを超え出る仕方で存在している。この幻想的身体がエロス的力動の原理を生み出すことは絶対的始発性であり、決してその背後に回ることのできない非知性であるから。

回答 4

人間の身体は言語ゲームを介した関係性のうちで生成する関係的身体(幻想的身体)である。人間の身体は生理的身体の成長に規定されるのではなく、関係世界における禁止と対象選択、すなわち幼児が経験する初期禁止と「誰から、どのように愛されるか」という関係的な「エロス的身体性」へと変化する。つまり、対他的な関系世界における「現実性」の一領域にほかならないから。

回答 5

人間身体のエロス原理は生理的身体の成長に規定されるのではなく、本質的に、関係世界における禁止と対象選択、すなわち幼児が経験する初期禁止と「誰から、どのように愛されるか」という問題を中心として構造化されるから。

回答 5

関係的な「エロス的身体性」は、生理的身体の成長に規定されるのではなく、幼児が経験する初期禁止と「誰から、どのように愛されるか」という問題を中心として構造化される。ここから幼児は関係的な企投の能力を主権的な自我として形成し始めるが、言語を自覚的に操作する能力や自己を反省する能力をまだ持っているわけではない。だから「幻想的身体性」は、私の現在的な自己理解に本質的に先行し、かつ、それを超え出る仕方で存在すると言える。

回答 5

人間の幻想的身体の構造化のプロセスは、言語ゲームによって媒介された禁止と対象選択の関係的な体制が、人間の身体性を動物的身体性から離陸させ、関係的な「エロス的身体性」へと変様させる過程である。(→知覚する身体から感受する身体へ) 人間は、誕生するやいなや、関係的実存のうちに言語ゲームを介して投げ入れられる。そのため、その経験的な過程は自覚的ではなく意識されることはない。