講師:居細工 豊
第五章 幻想的身体論
3.「身体」の本質洞察
*以下に、人間身体の「幻想的」本質を示す象徴的な事例がある。 一七九七年頃、南フランス、ラコーヌの森で、養育者をもたず孤独な生育期を過ごしたと思える野生児、ヴィクトールが発見され保護される。『アヴェロンの野生児』は、ヴィクトールを保護し養育した医師ジャン・イタールによる興味深い記録である。野生児をはじめに保護観察した精神医学者ピネルによる報告はいう。
《感官がひどい無力状態に陥ってしまっていて、この点で、少年はある種の家畜よりずっと下等だということになる。(中略)視線は固定性がなく、どんな対象も凝視することがなく、次から次へとばくぜんとただよっている。また、浮き彫りの物と絵画の中の物体とをぜんぜん区別できないほど無知で、触覚の訓練を受けていない〔ことがわかる〕。聴覚は、どれほど感動的な音楽であろうと、どれほど大きな雑音であろうと無感覚である》 (中野善達ほか訳、p23)
イタールによれば、ヴィクトールが欠いているのは、単に言語とそれがもたらすはずの文化的ルールだけではない。ふつうの人間がもつ身体的感受性、視覚、聴覚、触覚における感覚と識別の体制それ自体が欠けている。たとえばヴィクトールは、炉からころがり出た赤熱した石炭を平気でつかんで置き戻したりする。視覚が与える対象への興味、音楽的情感やさらに対他的な感情性にも明瞭な欠損がある。 イタールはヴィクトールに入浴の習慣を与えるべく試みる。少年ははじめとまどっているがやがて風呂を好むようになり、それとともに変化が生じる。それまでは衣服を身につけるのを嫌っていたが、あるころから寒さを感じて自分で衣服を身につけるようになり、長い間、裸の状態で寒い野外を平気で生きていたはずのヴィクトールは、やがて風邪にもかかるようになる。
*ヴィクトールの事例は、つぎのような仮説をわれわれに示唆する。人間はふつう、生まれるや否や養育者との関係世界に投げ入れられる(以後、一般性を取って母-子関係とする。) この母-子関係という生育の環境を欠くなら、人間は、通常の感覚性-感受性を育てることができないだけでなく、さらに、誰もがもつ人間的な価値と感受性の秩序、つまり「よいーわるい」「きれいーきたない」という「審級価値」を形成することができない。 人間の視覚は、対象の「美しさ」を、知覚するのではなく感受する。 さらにいえば、人間の「身体」は、対象の「何であるか」を感覚器官によって単に知覚あるいは判断するのではなく、豊かな意味―価値の統一体として感知―感受する。
*実証主義は、人間のこうした感知と感受の能力の本質を捉える方法を原理的にもっていない。こうした現象についてのデータは集積するが、データ自体はこの現象の本質について何も語らない。 人間の身体は、単なる感覚器官なのではなく世界感受の綜合的な能力、すなわち対象と世界を、意味、価値、エロス性的総体として感受する一つの「能う」にほかならない。われわれは、こうした人間的身体の生成の構造の探究を以後「幻想的身体」の発生論として試行する。その方法の原則は、現前意識に定位する本質洞察とその想像変様的洞察であって、それを実証主義的な発生論や起源論と混同してはならない。
*ショーペンハウアーに、「身体」についてのいわば現象学的な洞察の例がある。
《身体というこの唯一の客観は本質的に他のあらゆる客観とは異なっていて、あらゆる客観のなかでこれのみが意志であると同時に表象である、ということである。これに反し他の客観は単なる表象であり、いいかえれば単なる幻影でしかない。したがって身体こそ世界中でただ一つの現実的な個体である。すなわち身体こそただ一つの意志の現象であり、かつ主観にとってのただ一つの直接の客観なのである》(『意志と表象としての世界』西尾幹二訳、 P253)。
私の「意識」に現われるさまざまな事物表象のうち、他のすべての表象(=客観)とは区別される独自の表象がある。それは、その表象の変化が「私」の意志と直接的に結びついているような対象であり、それが私の「身体」と呼ばれるものである、と。 ショーぺンハウアーの洞察を変奏することもできる。ある事物が打撃を受けたのを見て、われわれが自分のうちに衝撃や痛みを感じたり、さらに、この事物が自分の意志に応じて運動するのを見るなら、われわれはこの事物を自分の「身体」(の一部)と見なさないわけにはいかない。 「身体」についてのショーペンハウアーの洞察は、身体がわれわれの意識にどのように現われ出るかではなく、むしろ、われわれが自己のどのような経験を「身体」と呼んでいるか、という仕方で問われていることが分かる。これは、「身体」の本質を、自己経験の内省的な洞察による観取の一つの範例である。だがさらに進もう。
*われわれは、メルロー=ポンティの身体論から、人間の身体を、「対象化されるもの」としてではなく「対象化する」本質として洞察する観点を受けとった。また、フッサールの「自我」論から、人間身体を、世界感受の能力を発生的に展開する独自の身体性とみる観点を受けとった。彼らのすぐれた洞察を引き継いで、私は、欲望論的な本質洞察の原則から、人間身体の本質を以下のように示したい。ただしこれは現前意識の直接的内省の記述ではなく、その構図化的変奏である。 「身体」の本質契機に属するのは、第一に「エロス感受」、第二に「存在可能」としての「ありうる」(欲望)、そして第三に、これらと等根源的なものとしての「能う」である。
(1)エロス的感受
*生き物(動物)は身体をもつ、というより、むしろ生き物は身体として実存する。身体は、生主体にとってのエロス的力動の原理であり、それは「快―不快」の二項性として表示される。つぎに遠隔知覚による世界の時間化、空間化をとおして、「快―不快」はさらに、「エロス的予期―不安」という上位の二項的原理を生成する。 なぜ物理的な連関―組成である「身体」が、エロス的力動の原理を生み出すのかについては決して知ることはできない。この非知性は、われわれが、なぜ世界の生成―存在があり、また自己が存在するのかを、つまり「原存在根拠」を知りえないのと同じく、原理的な非知性である。生成―存在はただ、存在者に到来的に告知されるだけである。存在の告知は、実存的な生の絶対的始発性なのである。
*「身体」は、われわれにとって、世界の存在を開始するエロス感受の二項的な原理である。「快」とは、主体をしてその状態を維持すべく促す情動性であり、「不快」とは、その状態を嫌厭(けんえん)し逃れようとさせる衝迫、と定義できる。主体にとって何が「快」であり、何が「不快」であるかは、到来的規定であって誰もその背後に回ることはできない。「快―不快」「エロス的予期―不安」というエロス的世界感受が身体のはじめの本質契機であり、それはまた世界の始原の分節の原理でもある。 このエロス的感受の審級は、関係世界の高度化に応じて上位の審級を形成し階層化してゆく。すなわち、「快-不快」「エロス的予期―不安」の審級は、人間的関係世界の中で、「よい—わるい」「きれいーきたない」の審級へと展開する。身体とは、第一義的に、こうして階層化されたエロス的な世界感受それ自身である。
(2)「存在可能」
*「存在可能」は「エロス的感受」と一つの事態であって、両者は切り離しえない。対象の知覚による「快―不快」の喚起はすなわち何らかの情動―衝迫の生起であり、またそれは、対象への接近と離隔の(企投への)身体的促し(衝迫)それ自体である。 一般に動物では、「快―不快」「エロス的予期―不安」の生起は、対象への衝迫と企投(行動)とほぼ一つである。しかし生き物の対象化能力が高度になるにしたがって、エロス的力動とそれが指し示す「欲望の対象」(存在可能)は、直接的一体性を失って分離される。衝迫と「存在可能(ありうる)」の間に選択や判断の契機が入り込むからである。 人間は、動物とは違って他者との「関係世界」を生きる。人間の身体は、他者との関係的価値—意味を感知する「関係的身体」となり、そのため人間の欲望(ありうる)は、本質的に、さまざまな欲望の対象に対する選択―判断の契機をもつ。すなわち「欲望の複数性」に規定される。 こうして、人間の欲望(エロス的力動による衝迫)はその直接性から自らを分離し、人間は自己の欲望とその対象自身に対して一つの主権的主体となる。ここに人間の「自由」の本質的根拠がある。
*動物は自らの身体をその欲望の規定から切り離すことができない。欲望(衝迫)はすなわち存在可能の告知である。しかし人間では、身体は、自らの欲望を絶対的な非知性において告げ知らせると同時に、これを対象化し、主体的判断の対象として、つまり私の存在可能として分離する。 動物では身体は実存の絶対的主体である。人間にとって私の身体は、欲望―衝迫として私を規定すると同時に私の「自由」にとっての対象性となる。つまり判断され評価され選択される「存在可能」となる。
(3)「能う」
*人間の「身体」の第三の本質契機は、その欲望の対象の多様性に対応して目標の実現を可能にする力能としての、「能う」(Ich kann)である。 ショーペンハウアーやベルクソンが指摘したように、「身体」は、心的なもの(意志)が事物的な因果の系と連繋する唯一のインターフェイスである。客体化していえば、生き物は回りの環境に働きかけて、外的世界とエネルギー交換を行なうことで自己を維持する。つまり、生き物の主体はその欲望―身体を通して外的世界と関係する。 動物においては、事物に働きかける身体の力能(「能う」)は、自然の秩序によって絶対的に規定されている(鹿が虎に勝つことはできない)。しかし人間身体の「能う」は修練可能性という特質をもつ。道具を延長された身体としてその「能う」を展開し、猛獣に打ち克つことができる。優れたピアニストやアスリートになるためには、長い時間を練習に費やさねばならないが、その結果、ふつうの人間がとうてい及ばない身体的「能う」を身につけることができる。つまり人間の身体の「能う」には修練(改変)可能性という本質が属している。
*動物は、その身体によって環境世界に働きかけ、糧(かて)(質料)を得ることで生存を維持する。人間の世界は環境世界ではなく関係世界である。それゆえ人間は、身体によって事物に働きかけるだけでなく、むしろ関係世界に、つまり他者に働きかけねばならない。 とはいえ、人間の関係世界、つまり言語ゲームの世界の基底をなすのは、やはり自然的「糧」の交換のシステム(生産、交換、所有、享受)である。しかし、動物の欲望と身体の「能う」が直接自らの糧に向かっているのに対して、人間の欲望の本質的対象は自然的糧ではなく、関係世界を生きることそれ自身である。それゆえ人間の身体は、関係世界(価値—意味の世界)へ働きかける力能としての「能う」をその本質としてもつ。
*関係世界に働きかける人間身体の「能う」は、二つの契機をもつ。第一に、関係世界の感受の力能としての「能う」であり、すなわち人間的な幻想的身体の「能う」の形成である。第二に、「語り」の「能う」であり、それは他者に働きかけることを通して関係世界へと働きかける力能である。 こうして、人間の幻想的身体は、価値―意味の感受の力能としての、また「語り」の力能としての「能う」となるが、この力能は、ただ成育の過程における言語ゲームを通して、その発生のプロセスをたどる。 人間の「性的身体」もまた、価値―意味の感受の「能う」と関係世界への働きかけの「能う」の二重性として規定されるが、この主題は、人間の対関係の本質論(『欲望論』第四巻)に属するのでここでは扱わない。


「身体」の本質洞察
野生児ヴィクトールの事例
〜 養育者をもたず孤独な生育期を過ごしたと思えるヴィクトール 〜
保護直後
| 感覚器官・識別・興味・感情性 | ・無力状態 ・視線は固定性がなく漠然と漂っている ・浮き彫りの物と絵画の中の物体とを区別できない |
| 人間的な価値・感受性の秩序 | ・衣服を身につけるのを嫌がる ・言葉とそれがもたらす文化的ルールの欠如 |
| 身体的感受性 (視・聴・触覚の感覚) |
・裸で過ごしても風邪をひかない ・赤熱した石炭を平気でつかんで置き戻す ・感動的な音楽であろうと、大きな雑音であろうと無感覚 |
養育後の変化
| 人間的な価値・感受性の秩序 | ・はじめはとまどっているがやがて風呂を好むようになる ・あるころから寒さを感じて自分で衣服を身につけるようになる |
| 身体的感受性 |
・やがて風邪にもかかるようになる |
幻想的身体
人間の身体は世界感受の綜合的な能力それ自身
ヴィクトールの事例は、つぎのような仮説をわれわれに示唆する。人間はふつう、生まれるや否や養育者との関係世界に投げ入れられる(以後、一般性を取って母-子関係とする。)
この母-子関係という生育の環境を欠くなら、人間は、通常の感覚性-感受性を育てることができないだけでなく、
さらに、誰もがもつ人間的な価値と感受性の秩序、つまり「よいーわるい」「きれいーきたない」という「審級価値」を形成することができない。
人間の視覚は、対象の「美しさ」を、 知覚するのではなく感受する。
さらにいえば、人間の「身体」は、対象の「何であるか」を感覚器官によって単に知覚あるいは判断するのではなく、 豊かな意味―価値の統一体として感知―感受する。
人間身体の本質
関係世界を生きる人間身体
※現前意識の直接的内省の記述ではなく、その構図化的変奏。
❶ エロス的感受
エロス的世界感受が身体のはじめの本質契機であり、それはまた世界の始原の分節の二項的な原理でもある。
主体にとって何が「快」であり、何が「不快」であるか、なぜ身体がエロス的力動の原理を生み出すのかについては、到来的規定であって誰もその背後に回ることはできない。 このエロス的感受の審級は、関係世界の高度化に応じて上位の審級を形成し階層化してゆく。
| 快 | 状態を維持すべく促す情動性 |
| 不快 |
その状態を嫌厭(けんえん)し逃れようとさせる衝迫 |
❷「存在可能」
動物では身体は実存の絶対的主体である。
人間の身体は、他者との関係的価値—意味を感知する「関係的身体」となる。
そのため人間の欲望(ありうる)は、本質的に、さまざまな欲望の対象に対する選択―判断の契機をもつ。
人間にとって私の身体は、欲望―衝迫として私を規定すると同時に、私の「自由」にとっての対象性となる。
つまり判断され評価され選択される「存在可能」となる。
❸「能う」
欲望の対象の多様性に対応して目標の実現を可能にする力能としての、「能う」(Ichkann)である。
人間身体の「能う」は修練可能性という特質をもち、道具を延長された身体としてその「能う」を展開する。
人間の欲望の本質的対象は自然的糧ではなく、関係世界を生きることそれ自身であるゆえ、関係世界(価値—意味の世界)へ働きかける力能としての「能う」をその本質としてもつ。
| 関係世界に働きかける能うの二つの契機 | |
| 感受の力能 | 関係世界の感受(人間的な幻想的身体) |
| 働きかけの力能 |
「語り」の「能う」 |
※この力能は、ただ成育の過程における言語ゲームを通して、その発生のプロセスをたどる。
宿題
本文中に、こうして、人間の幻想的身体は、価値-意味の感受の力能としての、また「語り」の力能としての「能う」となるが、この力能は、ただ生育の過程における言語ゲームを通して、その発生のプロセスをたどる。とあるが、「生育の過程における言語ゲームを通してその発生のプロセスをたどる」とはどういうことか説明せよ。
回答のお手本
関係世界に働きかける人間身体の「能う」は、二つの契機を持つ。
第一に、価値ー意味の感受の力能としての人間的な幻想的身体の「能う」の形成である。
第二に、他者に働きかけることを通して関係世界へと働きかける「語り」の力能としての「能う」である。
しかし、母子関係という生育の環境を欠くなら、これらの「能う」は育たない。
なぜなら、ヴィクトールの事例で分かるように、母子関係という生育の環境で育たなかった人間は、通常の感覚性ー感受性を育てることができないだけでなく、さらに、誰もがもつ人間的な価値と感受性の秩序、つまり「よいーわるい」「きれいーきたない」という「審級価値」を形成することができないからである。(297字)
参加者の回答
関係世界に働きかける人間身体の「能う」は、二つの契機をもつ。第一に、関係世界の感受の力能としての「能う」であり、すなわち人間的な幻想的身体の「能う」の形成である。第二に、「語り」の「能う」であり、それは他者に働きかけることを通して関係世界へと働きかける力能である。
母-子関係という生育の環境を欠くなら、人間は、通常の感覚性-感受性を育てることができないだけでなく、さらに、誰もがもつ人間的な価値と感受性の秩序、つまり「よいーわるい」「きれいーきたない」という「審級価値」を形成することができない。(ヴィクトールの事例)
人間の世界は環境世界ではなく関係世界である。それゆえ人間は、身体によって事物に働きかけるだけでなく、むしろ関係世界に、つまり他者に働きかけねばならない。
生育の過程における言語ゲームなしには、感覚性-感受性、関係世界への働きかけ(=「語り」)の能力を育てることはできない。
人間の身体は、単なる感覚器官ではなく、対象と世界を、意味、価値エロス性的総体として感受する「能う」であり、他者との関係世界へと働きかける力能を持つ幻想的身体である。
生物は「世界分節の原理」であるエロス的力動「快―不快」の二項性を持つが、人間はさらに、母子関係の会話を通して、「よい—わるい」「きれいーきたない」という価値秩序へ展開しながら、エロス的世界感受性を内面化して関係世界を生きる。
つまり、我々が当たり前に持っている、通常の「身体的」感覚性-感受性や、「人間的」価値・感受性の秩序は、もともと人間に備わっているものではなく、生育過程の言語ゲームによって後天的に形成されたものなのだ。
人間は、動物とは異なり他者との関係の中で成長し、その関係世界の中で言葉を用いることによって、他者からの働きかけを受け取る力と他者に働きかける力の両方が備わっていく。この受け取る力と働きかける力とが備わっていく過程が、人間の成長の過程であるということ。(125)
人間は通常、生まれた時から養育者との言語ゲームを通じて、関係感情のエロスを受けながら感覚性-感受性を育む。
その間、「快-不快」に始まる初等のエロス的感受の審級は、関係世界の高度化に応じて「善悪」「美醜」といった上位の審級を形成し階層化してゆく。
このような生育の過程を経て、人間の幻想的身体は、価値-意味の感受や「語り」の力能としての「能う」となるのである。
以上が「生育の過程における言語ゲームを通してその発生のプロセスをたどる」という事の意味するところである。/230字
人間は母子関係という生育環境を欠くと、「よいーわるい」などの価値審級を形成することができない。そして関係世界の高度化に応じて上位の審級を形成して、階層化していく。そして人間の身体は動物と違って、他者との関係的価値―意味を感知する「関係的身体」となり、人間の欲望は本質的に欲望の対象に対する選択―判断を行う。それゆえ人間の身体は関係世界(価値―意味の世界)へ働きかける力をもつ。
人間はふつう、生まれるや否や養育者との関係世界に投げ入れられる。この母-子関係という生育の環境を欠くなら、人間は、通常の感覚性-感受性を育てることができないだけでなく、さらに、誰もがもつ人間的な価値と感受性の秩序、つまり「よいーわるい」「きれいーきたない」という「審級価値」を形成することができない。
また、人間の視覚は、対象の「美しさ」を、知覚するのではなく感受する。さらにいえば、人間の「身体」は、対象の「何であるか」を感覚器官によって単に知覚あるいは判断するのではなく、豊かな意味―価値の統一体として感知―感受する。
「身体」の本質契機に属するのは、第一に「エロス感受」、第二に「存在可能」としての「ありうる」(欲望)、そして第三に、これらと等根源的なものとしての「能う」である。
関係世界に働きかける人間身体の「能う」は、二つの契機をもつ。第一に、関係世界の感受の力能としての「能う」であり、すなわち人間的な幻想的身体の「能う」の形成である。第二に、「語り」の「能う」であり、それは他者に働きかけることを通して関係世界へと働きかける力能である。
人間はふつう、生まれるや否や養育者との関係世界に投げ入れられる。初めの母-子関係における言語ゲームを通して、人間の幻想的身体は発生のプロセスをたどる。
まず言語ゲーム以前の、子から一方向的に遂行されてきた「要求-応答関係」が母と子の双方向的な関係へと移行することにより、「子のエロス中心性」は、身体の直接的な快-不快のエロスから関係感情のエロスへと転移する。(人間的な幻想的身体の「能う」の形成)
そして母による「禁止」の言葉を契機に、この関係は同じく双方向的な「言語ゲーム」となり、「よい-わるい」がはじめて子の関係世界における「価値」審級の言葉となる。これを起点として母-子の関係世界は高度化し、「よい—わるい」「きれいーきたない」の審級は高度化していく。(他者である母に働きかけることを通して関係世界へと働きかける「語り」の「能う」)
このように、母子関係における言語ゲームが、人間の幻想的身体の発生のプロセスとなっている。