講師:居細工 豊
第六章 無意識と深層文法
1.深層心理学の展開
*この章では、一般に「無意識」と呼ばれている領域を主題とする。その理由は、「無意識」の領域とはここまでわれわれが検証してきた、人間的身体の本質的一領域を形成するからである。すなわち無意識とは、人間の世界感受と存在可能(欲望の対象性)を規定するという点で、人間の幻想的な身体性の本質に属する。 一般に無意識は、「意識されない」心の領域、あるいは心の内的な構造の一部とみなされている。しかし、身体とならんで無意識も、現前意識において構成される一つの世界確信としての現実性にほかならない。ここでもわれわれは、本質洞察の方法によって無意識の本質を問いなおしてみよう。
*「意識されえず、しかし自己に属して自己存在を規定するもの」としての「無意識」の発見の功績は、もちろん、ジグムント・フロイトに帰する。 フロイトの深層心理学説は、二〇世紀の前半、その独創的理説によってあたかも一つの世界宗教が拡がるような勢いで世界中に拡がった。「エディプス複合(コンプレックス)」「去勢複合(コンプレックス)」という根本仮説、またリビドー、不安、抑圧、転移、外傷といった独自の述語によって、フロイト精神分析学説は、心理治療の学説としても一時期世界を席巻した。 また現代思想においても、フロイト理論は、記号論的にソフィストケートされたラカン派精神分析を生み、現代思想の中心の動機と深くかかわって現代思想における中心的な役割を果たした。一般に、ニーチェとフロイトは、いわゆるポスト構造主義の思想的なバックボーンをなしたといってよい。
*ラカンは、フロイトの去勢複合の仮説を精神分析理論の核心として受け取り、疎外された自己統合としての人間主体、という独自の像を提示する。その力点を「反―主体の形而上学」と呼ぶことができる。 《主体は、もともとは欲望のバラバラの寄せ集めです。これこそ「寸断された身体」という表現の本当の意味です。そして、「エゴ」の最初の統合は、本質的に「他(アルター)我(エゴ)」でありそれは疎外されているのです。欲望する人間主体は、主体にまとまりを与えるものとしての他者を中心として、その周りに構成されます。そして、主体が最初に対象に接近するのは、他者の欲望の対象として体験された対象なのです》(「精神病の問いへの序論」小出浩之ほか訳、P63)。 幼児は、鏡像段階以前(自我が統合される以前)では、自己身体を寸断された像としてもつため(フロイトでは部分欲動)、このバラバラの身体としての自己を統一された「主体」として形成する上で、「他(アルター)我(エゴ)」、つまり「他者の欲望」を必要とする。人間は、自分の欲望を自分で構成することはできず、他者の欲望によってはじめて自分の欲望を形成する。この意味で、人間の「主体」は本質的に「疎外」されたもの、いわば他我によって想像的に〝騙り(かた)取られたもの〟である、とされる。 こうした前提から、ラカンは、象徴界—想像界―現実界、抑圧—放棄、あるーない、対象「a」、根源的欠如、ファルス、「父の名」、大文字の他者、等々の、いわば記号論的な精神分析の体系を構築する。
*後に本質洞察によって確認するが、人間の「自我」は他者の「自我」との関係によってはじめて可能となるというのは正しい(これをはじめに指摘したのはへーゲルである)。しかしそれが、人間の「主体」の「疎外」や「騙り取り」を意味するというのは、事態本質でも原理でもなく、一つの恣意的な「解釈」にすぎない。つまり、ラカン説の背後には、人間の「自我」や「主体」のありかたを、ある種の欠損性として描き出そうとする動機が潜んでいる。 ラカンの記号論的精神分析の理論は、フロイトの「去勢複合」の仮説を受け継いでいる。フロイトが「抑圧」「トラウマ」「不安」「超自我」「反復強迫」と呼んだものは、ラカンでは、「対象a」、「ファルス」、「父の名」などと呼び変えられる。フロイトでは、人間の欲望は「去勢複合」によってその根本的な方向づけを与えられるが、ラカンでは「ペニスの欠如」が人間的欲望の起源―根源をなすとされる。「去勢複合」は、子が母に愛情を向けることに対する「父」の禁止であり、「ペニスの欠如」は、つまり去勢の結果として想像されているものを意味する。 フロイトの「去勢複合」の仮説は、神経症の根本理由とされるが、ラカンでは同じ仮説が、人間の欲望のいわば「物語」的な起源論を構成する。かみ砕けば、人間の欲望は動物とは違って幻想的な欲望として形成されるが(これは正しい)、その幻想性は、幼児がエディプス期に経験する「男根」をめぐる関係上のトラウマにその起源をもつ、ということになる(これは正しくない)。 しかし、現在では、そもそもフロイト心理学における、去勢複合およびエディプス複合の仮説が検証不可能な仮説として批判されており、そのことも、ラカンによる人間欲望起源説に形而上学的学説としての性格を与えている。 ただし、フロイトとラカンの学説には、いわゆる存在の「形而上学」とは異なった優れた思想的直観があり、これについては後に欲望論的観点から吟味する。
2.「深層文法」
*フロイト,ラカンに象徴される人間の深層心理についての、〝じつは……である〟という寓喩―説話的理説を、私は「深層文法」と呼ぶ。 人間の主体は、じつは不可視の内的領域に規定され、構造化され、従属しているが、この無意識となった領域を独自の理論によって可視化することができる。こうした「深層文法」の主張は、人間の主体はじつはすでに権力と文化の「不可視の」支配システムに従属させられている、というポストモダン思想の中心的コノテーションと結合し、それを補強する言説として強力に機能した(ドゥルーズにも、家族におけるエディプス的構造の枠組みが人間を社会的支配と従属へと構造化している、という『アンチ・オイディプス』での仮説がある)。現代の「深層文法」のこうした主張の中心を以下に要約することができる。
第一に、われわれの「主体」は、構造的に欺瞞(ぎまん)され疎外されて、支配への従属へと促されている。第二に「深層文法」を解説するものだけが欺瞞的従属の深層構造を認識する。第三に、この真実を拒否する者は、深層構造への否認において、抑圧し、欺瞞し、隠蔽する支配構造に加担する者である。 だが、認識論的には、この仮説は、フロイトやラカンの深層心理仮説が決して証明されないように検証されえない「物語」的仮説である。「じつは世界はかくかくであるが、それは無意識の構造であるために誰も気づくことができない」という理説は、「じつは神経症の根本原因は去勢複合だが、幼児期健忘のために誰もそれに気づくことができない」という仮説と本質的に同型である。さらにそれは、「じつは人類はその起源で犯した原罪のために、神にその救済を委ねている」という仮説とも同型である。この理説は「物語」(寓喩―説話)的理説であり、検証可能性をもたず、それゆえこれを信じるか信じないかは、もっぱら人々が置かれている心理状態に依存するのである。
*カール・ポパーに、きわめて興味深い「神話」類型的理説の批判がある。 『推測と反駁』で彼はつぎのように書く。帝国瓦解のあとのオーストリアに革新運動が起こり、さまさまな新しい理論が登場してきた。自分はとくにアルベルト・アインシュタインの相対性理論に関心をもったが、ほかにカール・マルクスの唯物史観、フロイトの精神分析理論、アルフレート・アドラーの個人心理学などが新思想として話題を呼んだ。しかしこの三つの理論は、相対性理論とはきわめて異なった特質をもっていると思えた。つまり、三つの理論は、科学の体裁をとっているが、実際にはむしろ「科学よりも原始的神話」に共通するもの、「天文学よりも占星術に似ている」ものと感じられた、と。
《わたくしは、マルクス、フロイト、アドラーの信奉者だった友人たちが、それらの理論に共通な多くの論点、とくにそれらの見かけ上の説明能力に驚いていていることに気づいた。これらの理論は、実際上、それらが言及する領域内で生ずるあらゆる物事を説明できるように思われた。そのいずれかを研究すると、知的な回心ないし啓示といった効果が生じ、いまだに研究を始めていない者には隠されている真理に対して、新たに目がひらかれるように思われたのである。このようにして、いったん目がひらかれると、いたるところにその理論を支持する事例が見えるようになり、世界はその理論の検証例で充ちあふれていることになる。(中略)それを信じない者は、明らかに、開示された真理を見ようとはしない者どもであって、真理を見るのを拒んでいるのは、それがその者たちの階級の利益に反しているか、あるいは未だに「分析」されずに治療を切望しているかれらの抑圧がある からなのであった》(『推測と反駁』藤本隆志ほか訳、P59―60)
周知のようにポパーは、科学理論の妥当性と普遍性を吟味するためのすぐれた理論である「反証主義」の提唱者である。ポパーによれば、これらの理論はまさしく反証可能性をもたない(実証も反証もできない)という点で、実証的学問としての資格を欠いている。ポパーが深層心理学の諸学説を物語的―神話類型的仮説とみなすことには、大きな理がある。
*キリスト教神学では、無数の形而上学的(物語的)世界理説が存在する。グノーシス主義では世界は本来、悪であり、プロティノスでは世界は美しく祝福されている。オリゲネスは一切の精神の救済の可能性を説き、アウグスティヌスでは救済は絶対的に決定されている。こんな具合に、キリスト教神学の中だけでも夥(おびただ)しい数の対立的な世界理説がある。これは仏教哲学(中観、唯識、天台、華厳、浄土、禅、密教その他)でも同じである。 これらの理説は、どれもきわめて一貫した整合的な世界説明の体系をなしており、どの理説においてもいったん「帰依」が生じるやまさしく「知的な回心」が生じてその真理への内的確信がますます強化されてゆき、これに疑いを示す者は、無知や別の利害的動機やまた何か隠された抑圧によって「真理」を拒否する者と見える、という性格が明らかに観て取れる。 ポパーによれば、こうした物語的―神話類型的仮説への批判は、じつのところ、宗教的教義のみならず、近代以後の形而上学的哲学、さらに実証主義的な人文科学の諸理論にも妥当するのであって、この事態は、心理学、社会学、政治学、歴史学といった人文諸科学における広範かつ深刻な対立の理由を、鮮やかに説明するのである。
*ニ〇世紀の前半、学問界と思想界を席巻したフロイトの「無意識」学説は一方で宗教の教派のように細胞分裂し、多くの対立しあう深層心理諸学派を生み出した。ユング派、アドラー派、フロイト左派(フロム、マルクーゼ)、自我心理学(アンナ・フロイト)、対象関係論(メラニー・クライン)、構造主義深層心理学(ラカン)等々。だが一方で、アメリカを中心とする実証的な心理治療の領域では、フロイトの諸仮説に対して強い批判が生じ、現在では精神分析の学説はほとんど中心的役割を果たしていない◦ しかし、ではフロイトの深層心理学説は、もはや普遍妥当性を確保できず、学問としての重要性を失ったとみなされるべきだろうか。そうではない。
*クロード・レヴィ=ストロースは、未開社会におけるシャーマン的呪術による心理治療を見聞したあと、以下のような興味深い記録を残している。 《治療は、したがって、はじめは感情的な言葉であたえられる状況を思考可能なものにし肉体が耐えることを拒む苦痛を、精神にとっては受けいれうるものとすることにある。シャーマンの神話が客観的現実に照応しないということは、大したことではない。患者はその神話を信じており、それを信ずる社会の一員である。守護霊と悪霊、超自然的怪物と魔術的動物は、原住民の宇宙観を基礎づける緊密な体系の一部をなしている。患者はそれらを受けいれる。(中略)細菌と病気の関係は、患者の精神の外にある。それは原因と結果の関係である。これに反して、怪物と患者との関係は、意識的か無意識的かを問わず、この同じ精神の内部にある。これは象徴と象徴されるものとの関係、あるいは言語学者の言葉を用いれば、意味するものと意味されるものとの関係である。シャーマンは、その患者にいい表わされず、またほかにいい表わしようのない諸状態が、それによって直ちに表わされることができるような言葉をあたえるのである》(『構造人類学』田島節 夫ほか訳P218)。
病の原因についてのシャ—マンの説明方式は、現代的な合理性からは「客観的現実」に妥当しない。にもかかわらず、呪術的療法の実際的効果についてはあらゆる領域で肯定的報告があり、それをまったくの虚偽として退けることはむずかしい フロイト深層心理学の仮説も、その他さまざまな心理療法の仮説とともに「客観的現実」との一致が証明されているわけではない。にもかかわらず、やはりさまざまな心理治療の方法が、それぞれ治療としての実際的効果をもつことについての報告がある。レヴィ=ストロースはこの興味深い類似に注目する。
《シャーマンの方法を、最近あらわれて精神分析によるものと自称している若干の療法と比較するとき、類似はさらに驚くほどのものとなる。(中略)セシュエ夫人(注→精神科医)の所作は、ちょうどシャーマンによって引き起された表象が臨産婦の器官の機能の変化を規定するように、その精神分裂患者の無意識の精神に反響する》(同前、P221)
レヴィ=ストロースの考察は以下のことをよく示唆する。すなわち、シャーマン治療の効果は、現代医学の合理性からは説明できない。しかし、患者、治療者、家族、部族の人間たちに共有されている「病」の原因についての共同的信憑が、治療の効果を支える重要な要因となっていることは十分に推測される。患者にも人々にも言い表せない病の原因が、シャ―マンの言葉と振る舞いと施術によっていわば「象徴的に」「与えられ」、さらに除去されるように見える。 レヴィ=ストロースによれば、こうした事実を説明するのは未開人の共同信憑が形成する「象徴機能」の構造である。そして、この「象徴と象徴されるものの関係」は、深層心理学や他のさまざまな心理療法においても見出すことのできる本質的構造である。
*われわれは、レヴィ=ストロースの優れた洞察を欲望論的な観点によってさらに推し進めてみよう。
動物の身体の動きを見ると、われわれはそこに「心的なもの」の存在を、つまり、一般に、「意志」、「判断」、「感覚」、「感情」と呼ばれるものの存在を直観的に確信する。この「心的なもの」の存在を、事物存在との連関として形式論的に表現するなら、それは本質的に、事物的因果の連関を超え出たある「不可視のもの」、「空白」の領域として見出される。つまり事物連関の記述のうちに現われ出る、いわば「ブラックボックス」の領域である。
どれほど高度に設計された「思考する」コンピュータの働きも、物理的―事実的因果の厳密な系列として記述できる。一方どれほど単純な組成からなる生き物も、それが動物であるかぎり、その事物―事実的因果系列のうちに記述不可能な「空白」の領域をもつ。高度な科学は、それに連接するインプットとアウトプットの系列をどこまでも厳密に記述するが、ここに見出される「ブラックボックス」の内部については決して記述できない。
この記述不可能性は原理的なものだ。もし記述されるなら生き物から「自由」の領域が消失し、それは単なる精密な機械仕掛けの存在とみなされるほかないからである。

われわれが生き物に見出すこの記述不可能な領域は、『物質と記憶』でベルクソンが「中央電話局」の比喩で示した、選択的機能としての脳の役割、すなわち「注意」「判断」「選択」の領域にほかならない。重要なのは、われわれが記述できるのは対象化されたものだけであること、そして注意し、判断し、選択する働きは世界を対象化(分節化)する原理であり
それは決して物理的な因果として記述されえないということである。
この記述的に絶対的な「空白」の領域を、われわれはべルクソンにならって「自由」の領域と呼んでよい。 レヴィ=ストロースがいう「象徴機能」とは、ラカンの象徴秩序とは無関係であって、以下のような事態をさす。症状の多様な現出についての「言葉にできない」原因が何らかの仕方で「象徴的」に説明され、それに応じた実践的治療が試みられること、そしてこの象徴的治療行為が、共同的に承認され信憑されることで、一定の治癒の効果が現われること。
さまざまな心理学説とその治療が、その理説上の対立にもかかわらず、どれも一定の治癒効果を上げているという広範に見られる事態は、この象徴機能の構造の本質をよく示唆する
現代医学は優れた実証的技術によって「病」の原因を身体―事物的因果連関の不調として突き止め事物的な連関の操作においてこれを治療する。しかし心的な障碍においてはこの方法は適応不可能である。われわれはあの「不可視域」の前後、そのインプットとアウトプットについてはどこまでも因果的連関を把握できるが、「不可視域」の内部は原理的にただ推論することしかできない。そしてこの推論は必然的に多様なものとなる。
精神分析であれ、シャーマン治療であれ、そこで可能なのは、「不可視域」で生じている事態についての何らかの仮説的説明(=物語)を立て、この仮説に対応した治療行為を「象徴的に」遂行することだけである。つまり、こうした心理治療において問題なのは、そこで立てられる「不可視域」の内部についての仮説の正しさではなく、むしろ、治療の実践のプロセスにおける象徴的構造なのである。


人文領域の「空白部分」についての言説
| 「空白部分」を指すもの | 「空白部分」について | 検証/反証可能性 | |
| フロイト | 「無意識」 | 「エディプス複合(コンプレックス)」 「去勢複合(コンプレックス)」など |
深層文法 |
| ラカン | 「反―主体の形而上学」 | ||
| ベルクソン | 「中央電話局」 「自由の領域」 (注意・判断・選択) |
注意→判断→選択という過程が、人間の自由行為の基盤 | |
| 欲望論 | 欲望相関的に⽣成する 無意識は身体と並んで「現前意識」に |
内部は原理的に「記述・還元不可能」 実体としてではなく |
|
| 実証科学 | アクセス不可能 | ||
深層心理学の諸学説 =「物語的―神話類型的仮説」
「深層⽂法」は「じつは…である」という物語の構造になっている。
検証可能性をもたず、それゆえこれを信じるか信じないかは、もっぱら人々が置かれている心理状態に依存する。
例:⼈間主体はじつはすでに権⼒と⽂化の「不可視の」⽀配システムに従属させられている。
→ポストモダン的主張の構造と似ている。
「理解できない」ということは「⾃分の能⼒不⾜だ」と思わせる側⾯がある。
反証可能性をもたない
ポパーによれば、「深層心理学の諸学説の理論はまさしく反証可能性をもたない(実証も反証もできない)という点で、実証的学問としての資格を欠いている。深層心理学説は、もはや普遍妥当性を確保できず、学問としての重要性を失ったとみなされるべきだろうか。そうではない。
「心理療法」の意義
シャ—マンの呪術的療法に実際的効果同様、フロイト深層心理学の仮説も「客観的現実」との一致が証明されているわけではないにもかかわらず、治癒効果が広範に見られる。
| 心的な病:「象徴機能」の治療構造 | |||
| 象徴されるもの | 象徴 (空白部分の説明) | 象徴的治療 | |
| シャーマン | いい表わしようのない諸状態 | シャーマンの⾔葉 | 振る舞い、施術など |
| 心理療法 | 病(⾔葉にできない症状) | 独自理論によって可視化 | なんらかの方法での実践的治療 |
| 神事 | 設定された事象 | 象徴的に設定された原因 | 儀式 |
| 不運が続く | 厄年 | 厄払い | |
| 事物的連関の病:「現代医学」による治癒の構造 | |||
| 医学 | 結果 | 原因 | 治療 |
| 病気(身体の不調) | 細菌 | 投薬治療 | |
共同信憑が形成する「象徴機能」の構造
〜 治療の実践 〜
心的な障碍においては、 現代医学の優れた実証的技術による事物的な連関の治療ができない。
シャーマン治療や深層心理学や他のさまざまな心理療法の構造は、症状の多様な現出についての「言葉にできない」原因が何らかの仕方で「象徴的」に説明され、それに応じた実践的治療が試みられること、そしてこの象徴的治療行為が、共同的に承認され信憑されることで、一定の治癒の効果が現われる。
つまり、こうした心理治療において問題なのは、そこで立てられる「不可視域」の内部についての仮説の正しさではなく、むしろ、治療の実践のプロセスにおける象徴的構造なのである。
たとえば患者は、治療者とともに、その原因を想定し、想定された原因に応じた何らかの試みを行なう。だが、肉体的な病とは違って明確に原因を把握することはできず、ただ想定することしかできない。にもかかわらず、この想定された原因に対して何らかの仕方で働きかけようとする。そしてそれはある場合成功し、ある場合失敗する。これが心理治療の名で行なわれていることの全体像である。この試みは、しかしそれ以上の方法がどこにもないという点で理に適(かな)っている。
宿題
本文中に、【このようにして、いったん目が開かれると、いたるところにその理論を支持する事例が見えるようになり、世界はその理論の検証例で満ち溢れていることになる。】 とあるが、筆者はなぜ検証例に傍点をつけたのかその理由を説明せよ。
回答のポイント
① 引⽤部分の筆者(ポパー)の意図に関する設問。
→ ⽵⽥欲望論的観点を付け加えた回答は設問の内容から外れます。
② ⽂中の『検証例』という⾔葉の意味への理解についての設問。(⾔葉通りの意味ではないため)
→ 検証不可能なものに対して使っているという批判的意味としてのニュアンスが伝わればOKです。
本文に、【病の原因についてのシャーマンの説明方式は、現代的な合理性からは「客観的現実」に妥当しない。にもかかわらず、呪術的療法の実際的効果についてはあらゆる領域で肯定的報告があり、それを全くの虚偽として退けることはむずかしい。】 とあるが、なぜむずかしいのか。「象徴機能の構造」という言葉を使って説明せよ。
回答のポイント
①と②の違いを理解し、③の結論を導き出せていればOK
① 「象徴機能の構造」とは何であるかが含まれているか。
「象徴するものと象徴されるもの」の関係をつかめているか。共同的信憑についても書いていたらなおよい。
② 現代的な合理性とは何か。
例:仮説の正しさ、事物連関、現代医学、など
③ 「客観的現実」と⼼理治療の関係性について
治療の実践プロセスが「客観的現実」よりも⼤事である(有効性がある)ということ。
回答のお手本
設問1 「検証」とは、ある理論についての反証可能性を試験し、その理論の妥当性と普遍性を確認することを意味するが、深層心理学の諸学説は「物語的ー神話類型的仮説」の性格を持っており、そもそも「検証すること自体が難しい」ということを読者に印象づけるため。(120)
設問2
特に心的な障碍に対する治療には、症状についての「言葉にできない」原因を、患者が属する共同体に承認・信憑される何らかの形で「象徴的」に説明する「象徴機能の構造」を持つシャーマンの治療が有効である。その有効性は「何らかの物語」を用いて「不可視域」を仮説的に説明するものであり、病の原因を身体ー事物的因果連関の不調と捉え、事物的連関の操作によって治療しようとする現代医学の治療とは異なるものであるから。(198)
参加者の回答
設問 1 検証例に傍点をつけた理由は、深層文法(物語的―神話類型的仮説)は驚くほどの説明能力があり、見かけ上は検証できている様に思われるが、それらは原理的に検証の可能性を持たない。 なぜなら、人間の「心的な領域(ブラックボックスの内部/世界を対象化・分節化する原理)」は記述不可能であるからだ。もし記述されるなら生き物から「自由」の領域が消失し、それは単なる精密な機械仕掛けの存在とみなされるほかないからである。
※コメント:前半のみ◎。後半(なぜなら〜)はポパーの意図ではないため✖。
設問 2 我々人間は、言葉にできない心的な領域(欲望論的には自由の領域)を持つ。シャーマン治療や深層心理学・心理療法では、精神的な苦しみから来る「言葉にできない」原因を、何らかの仕方で「象徴的」に説明し、それに応じた実践的治療を試み、それが共同的に承認され信憑されることで、一定の治癒の効果を出す。それが「象徴機能の構造」である。そこで立てられる「不可視域」の内部についての仮説は、正しさではなく、むしろ、治療の実践のプロセスにおける象徴的構造として機能しているからである。
設問 1 これらの理論は物語的仮説であり、検証可能性を持たず、それ故これを信じるか信じないかは、もっぱら人々が置かれている心理状態に依存する。しかしどの理論においても一旦「帰依」が生じるやまさしく「知的な回心」が生じて、その真理への内的確信はますます強化される。それゆえ、この検証例は普遍妥当性を持たないが、一部の人間の間では間主観的に検証し合えるという点で、検証例とも言えるため、傍点をつけている。
※コメント:前半、「この検証例は普遍的妥当性を持たない」まで◎。最後の⼀⽂は完全な誤読。 → 間主観的に信憑は形成されるが、それは検証とは⾔い得ない。
設問 2 シャーマンは、患者にも、人々にも言い表せない病の原因を、言葉と振る舞いと施術によって象徴的に説明し、それに応じた実践的治療を試みる。そしてこの象徴的治療行為が共同的に承認され、信憑されるという「象徴機能の構造」が働くことで、一定の治療の効果が現れる。 これに対し現代医学は、事物的な連関の操作において病を治療する。しかし「心的なもの」は事物的因果の連関を越え出た不可視なものであり、この内部は原理的にただ推論することしかできない。 だからシャーマンの説明方式における「不可視域」の仮説の正しさは問題とはならず、むしろ治療の実践のプロセスにおける象徴的構造が問題である。そのために、シャーマンの説明方式が「客観的現実」に妥当しないからと言って、まったくの虚偽であると退けることは難しい。
設問 1 竹田青嗣が提唱した「深層文法」と呼ばれる理説について、反証主義のカール・ポパーは、この種の理論は反証可能性を欠く点で、実証的学問としての資格を持たないと批判している。つまり、深層心理学の諸学説は物語的・神話的な仮説としての性格をもち、経験的に検証することが不可能であるにもかかわらず、あたかも理論が検証されたかのように語られる例が多い。言い換えれば、実際には理論の検証ではないにもかかわらず、「検証例」として現実に受け入れられている事例が随所に見られるのである。
反証主義のカール・ポパーは、深層心理学の理論は反証可能性を欠く点で、実証的学問としての資格を持たないと批判している。つまり、深層心理学の諸学説は物語的・神話的な仮説としての性格をもち、理論を検証することが不可能であるにもかかわらず、あたかも理論が検証されたかのように語られる例が多い。言い換えれば、理論の検証ではないにもかかわらず、「検証例」として現実に受け入れられている事例が随所に見られるから。(AIで整えるとこうなりました)
設問 2 心的な病において原因を身体―事物的因果連関の不調として突き止め、治療する方法は適応不可能である。「不可視域」の内部については推論するしかない。だからこそ「不可視域」で生じる事態について何らかの仮説的説明(=物語)を立て、患者や家族などに共有されている共同的信憑を元に、「象徴機能の構造」で効果をだしているから。
※コメント:
設問 1 アルベルト・アインシュタインの相対性理論、ほかにカール・マルクスの唯物史観、フロイトの精神分析理論、アルフレート・アドラーの個人心理学などが新思想として話題を呼んだ。しかしこの三つの理論は、相対性理論とはきわめて異なった特質をもっていると思えた。つまり、三つの理論は、科学の体裁をとっているが、実際にはむしろ「科学よりも原始的神話」に共通するもの、「天文学よりも占星術に似ている」ものと感じられた、と。 これらの理論は、実際上、それらが言及する領域内で生ずるあらゆる物事を説明できるように思われた。そのいずれかを研究すると、知的な回心ないし啓示といった効果が生じ、いまだに研究を始めていない者には隠されている真理に対して、新たに目がひらかれるように思われたのである。 周知のようにポパーは、科学理論の妥当性と普遍性を吟味するためのすぐれた理論である「反証主義」の提唱者である。ポパーによれば、これらの理論はまさしく反証可能性をもたない(実証も反証もできない)という点で、実証的学問としての資格を欠いている。ポパーが深層心理学の諸学説を物語的―神話類型的仮説とみなすことには、大きな理があるから。
※コメント:⻑い。要点はつかめているが、「なぜ筆者は検証例に傍点をつけたのか」という問いの答えになってない。
設問 2 症状の多様な現出についての「言葉にできない」原因が何らかの仕方で「象徴的」に説明され、それに応じた実践的治療が試みられること、そしてこの象徴的治療行為が、共同的に承認され信憑されることで、一定の治癒の効果が現われることがそれを全くの虚偽として退けることはむずかしい。 さまざまな心理学説とその治療が、その理説上の対立にもかかわらず、どれも一定の治癒効果を上げているという広範に見られる事態は、この象徴機能の構造の本質をよく示唆する。 精神分析であれ、シャーマン治療であれ、そこで可能なのは、「不可視域」で生じている事態についての何らかの仮説的説明(=物語)を立て、この仮説に対応した治療行為を「象徴的に」遂行することだけである。つまり、こうした心理治療において問題なのは、そこで立てられる「不可視域」の内部についての仮説の正しさではなく、むしろ、治療の実践のプロセスにおける象徴的構造なのであるから。
設問 1 ここでの「検証例」はポパーの反証主義の立場で捉えたときに科学的な検証とは言えないため。
設問 2 動物は記述不可能な「空白」の領域、つまり「ブラックボックス」を持つが、その内部について決して記述できない。なぜなら、この記述不可能性は原理的なもので、もし、記述されるなら生き物から「自由」の領域が消失し、それは単なる精密な機械仕掛けの存在とみなされるほかないからである。したがって象徴機能の構造上、実践的治療が試みられ、象徴的に治療行為が共同的に承認され信憑されることで、一定の治癒効果が現れるので、シャーマンの説明方式を虚偽として退けるのは難しいと言える。
設問 1 マルクス、フロイト、アドラーの理論は「反証可能性」をもたないという点で、「物語的-神話類型的仮説」とみなされるため、これらの理論をもとにした"検証例"は「実証的学問の資格は欠いている」という批判的意味を示す目的で、筆者は傍点をつけたと考えられる。
設問 2 シャーマン的呪術による心理治療は、未開人の共同信憑が形成する「象徴機能の構造」(「象徴と象徴されるものの関係」)をもち、一定の治療の効果が現れる。 「心的なもの」の存在は、事物連関の記述のうちに現われ出る、「ブラックボックス」の領域(=「自由」の領域)であるため、原理的に記述不可能であり、推論することしかできない。(この推論は必然的に多様なものとなる。) 可能なのは、「不可視域」で生じている事態に仮説的説明(=物語)を立て、この仮説に対応した治療行為を「象徴的に」遂行することだけである。 このように、「不可視域」の内部の仮説の正しさ(「客観的現実」に妥当するか)ではなく、治療の実践プロセスの「象徴的構造」が心理治療における問題となる。 よって、呪術的療法の実際的効果を虚偽として退けることはむずかしい。