東大阪の学び場|マナビー

第21回「新・哲学入門」
竹田 青嗣 著(講談社現代新書)

講師:居細工 豊

キーワード
「価値審級の発生」

第七章 価値審級の発生


1.価値論的転回

*ここまででわれわれは、「価値の哲学」の探究の予備考察として、「価値-意味」の本質論、身体、心、無意識についての本質洞察を終えた※註1。だが、次の主題に進む前に、ヨーロッパ哲学が「価値」の問いをどのように扱ってきたかについて、大きな輪郭を描いておここう。
ヨーロッパ哲学において、価値の問いをはじめて哲学的問いとして提示したのはソクラテス、プラトンである註2。だが、プラトンは「真善美」の問いを、多く「物語」(神話)の形

註1:ここでの「価値」は、哲学的に「真・善・美」と呼ばれる人間固有の価値秩序を指すが、諸対象に属する一般化された「財価的価値」と区別して、これを「価値審級」と呼ぶことにする。 註2:《人間にとって本来考察するにふさわしいことは、その者自身についてであれ、また他の物事についてであれ、ただ、どのようにあるのがもっともよいかというそのこと、つまりそのものにとって最高の善とは何かということ、だけなのである》(プラトン『パィドン』松永雄二訳、P284)。

で展開したため、この問いに哲学的に接近するための基礎方法を残していない。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』を書いたが、ここでも「善とは何か」の問いは、当時の有力な市民に共有されていた諸徳(卓越性)についての悟性的整理学を出ておらず、「善悪」という価値審級の哲学的原理論とはいえない。

*近代哲学において誰より重要なのはカントである。彼はプラトンの問題提起に応えて、三批判書(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』)をの本質の探究として書いた。 『実践理性批判』は、道徳哲学、つまりカントによる「善」の本質についての探究を意味する。カントの議論は多岐にわたるが、その主張の核心を三つのテーゼで総括できる。

(1)主観的な善ではなく万人にとって善として妥当するものだけが、哲学的に、それゆえ普遍的に「善」と呼べる(この考えによってカントは、それまでの善の絶対的根拠だった宗教的な善の観念を廃棄する)。

(2)何が普遍的な善といえるかについて、人間は理性によって必ず判定できる。

(3)それゆえ、自由意志によって理性が示す善の「義務」にしたがうことのみが、道徳的行為といえる。

(さて、このカントの善の弁証論は興味深い。というのは、これはゴルギアス・テーゼにおける、「善悪」「正義・不正義」に普遍的な根拠はないという結論に対する、一つの重要な反証を意味するからだ。 カントはこう書く。「自由は道徳的法則の存在根拠、道徳的法則は自由の認識根拠」と(『実践理性批判』序文)。つまり、人間だけが理性にもとづく自由意志によって道徳的行為を行なうが、これは一方で、人間世界に「自由」の存在することの証明であり、他方で、人間の自由の能力が人間世界に「善=道徳」を創り出しうることの証明でもある。 この議論はじつに独創的である。ゴルギアスでは、正しい認識はありえないので何が善か認識できない。しかしカントでは、「自由」の存在の証明によって善の創出(道徳の存在)が証明されるからである。

*「何が善であるかを人間の理性は必ず判断できる」というカントの独創的議論は、しかし、のちにヘーゲルによって強力に論駁ろんばくされる(「善についての全知は存在しえない」)このことで、カント自身は解決されたと考えた、何が「善」の本質であるかという問いは、未決のものとして残されることになる。 とはいえ、カントの道徳哲学の最大の功績は、それまで「善」の観念の最大の根拠であった宗教的な善の観念を完全に排除して、その根拠を人間理性においた点にある。カントの道徳哲学は、これによってたしかに近代市民社会における新しい「道徳」観念を開いたといえる。しかし、彼の「道徳哲学」は、何を善とみなすべきかという規範哲学であって、そもそも「善」とは何であるかという善の本質論とはいえない。

*その後の、ドイツ観念論、新カント派の哲学者、そして初期現象学者たちは、カントの問題意識を受け継いでそれぞれに「価値」の問いを探究した。ヨーロッパ的「神」の観念 (至上存在、絶対者)はドイツ観念論で終わりをつげるが、その後の、ヴイルヘルム・ヴインデルバント、マックス・シェーラー、マルテイン・ブーバー、西田幾多郎といった哲学者たちは、それぞれが、いわば「神」に代わって「価値」を根拠づけるものを追い求めた。しかし価値は人間の関係世界にのみその根拠をもつ。価値の根拠を何らかの「超越的存在」に求める一切の試みは必然的に「本体の形而上学」となる。 たとえば、ヴインデルバントはいう。《事実的評価の相対性を脱するためには、吾々は価値自体(wert-an-sich)を求めねばならぬ》(『哲学概論』清水清訳、P281)、と。要するに、ここではまだ価値の「本体」観念が生きているのである。

*一九世紀の最後になって、ついに「本体」観念の決定的解体者であるニーチェが登場する。われわれはすでに、ニーチェ哲学が、単なる無神論として現われたのではなく、それまでのヨーロッパ哲学の認識論と存在論の総顚倒として登場したこと、そして、彼の「力―相関性」の哲学が、必然的に「価値の哲学」に向かうものであることを見てきた。《哲学者は価値の問題を解決せねばならない》(『道徳の系譜』)。 「真善美」の問い、価値の問いが哲学の第一主題であることは、近代哲学者によって暗々裡あんあんりに共有されていた。しかし価値の問いは、ニーチェに至るまでけっして「価値」の本体論から、つまり何らかの超越的存在による根拠づけという発想から抜け出せなかったのだ。