東大阪の学び場|マナビー

第4回「新・哲学入門」
竹田 青嗣 著(講談社現代新書)

講師:居細工 豊

キーワード
「よい・わるい」 「分節=存在喚起」
「関係世界」 「価値審級」

第八章・第一節 よい・わるいの生成


*人間にあって動物には存在しないもの、第一に、母—子の関係感情の世界、第二に言語 ゲームとしての世界、そして第三に、「自我」への価値的ルールの内面化。これらの諸契機が、人間の心に善悪、美醜の価値審級を創りだし、そして人間世界に「真善美」の価値の秩序をうちたてるのである。

*ニーチェの『道徳の系譜』は、「善悪」の価値についての独自の系譜学(アルケオロジー)、すなわち歴史的本質発生論にほかならない。
彼の主張はよく知られている。ヨーロッパでは、「善い」という言葉は、もと、人間生活に豊かさ、愉楽を与えるもの、困難を克服する力能、などに対して名づけられた。これを貴族的評価様式と呼べる。しかし、この自然な価値評価様式は、のちに、長く被支配のうちにあった民族の宗教感情のうちで大きく変容する。すなわち僧侶的価値評価様式へと反転する。ここで善は、本来の善からその反動的形式へ、つまり禁欲的、反現実的、反愉楽的なものとなる。 すなわち、概して「良心の疚しさ」の形式をとる。

《ユダヤ人こそは、恐怖を覚えるばかりの徹底性をもって、貴族的な価値方程式(善い=高貴な=強力な=美しい=幸福な=神に愛される)にたいする逆転のこころみをあえてし、底しれない憎悪(無力の憎悪)の歯がみをしながらこれを固執した張本人であった。すなわちいう、「惨めな者のみが善い者である。貧しい者、力のない者、賤しい者のみが善い者である。悩める者、乏しい者、病める者、醜い者のみがひとり敬神な者、神に帰依する者であって、彼らの身にのみ浄福がある」(『道徳の系譜』信太正三訳、P388)。

ニーチェが歴史発生的な起源論、系譜学として記述したものを、われわれは個体的な本質発生論として書き直すことができる。あるいはむしろ、個体的本質発生論が歴史的発生 の解釈に、その真の説得力を与える(誤解なきようにいえば、ニーチェは「反ユダヤ主義」とは無縁である)。

⑤ルール規範の順守をめぐる承認価値
*母による「禁止」を契機に、それまで子から一方向的に遂行されてきた要求—応答ゲームは、双方向的なものへと移行する。同時にこの関係は同じく双方向的な「言語ゲーム」のうちで遂行される。
母―子の言語ゲームは、まず、そこに現われる諸対象に「名」を与えて、対象の世界を両者にとっての共通世界として創出する。だが、この初期言語ゲームにおいて決定的な重要性をもつのは、子の行為と態度に対する母からの「よいーわるい」という二項的名づけにほかならない。
母の言葉「よいーわるい」は、子のエロス中心性の転移のプロセスに応じてその内実を変える。はじめの「よいーわるい」は、子の直接的な身体エロスの肯定と否定を呼び分ける。つまり、「おいしいね」や「気持ちいいね」を代行する。つぎにそれは、身体エロスから離れて母―子の「関係感情」のエロスの肯定と否定、すなわち、「うれしいね」「愉しいね」などを表示する。
そして「初期禁止」の段階が現われる。ここでまず、「よいーわるい」という言葉は、「これを食べてはいけない」「触ってはいけない」といつた禁止を、つまり対象と行為の禁止を意味する。

*重要なのは、母の「よいーわるい」は、やがて単なる対象と行為の禁止からさらに進んで、母の禁止と命令に対する子の態度、つまりその順守と抵抗に対してこれを名づける言葉となるということだ。ここでは、「わるい」のは、もはや禁止となる対象ではなく、禁止に対する子の不従順の態度それ自身である。そして、禁止の順守は「よい」と呼ばれて母の親愛と歓待を招くが、不従順や抵抗は、「わるい」と呼ばれて不機嫌の気分によって応答される。
こうして、「よいーわるい」の言葉は、まず子の直接的な身体エロスの肯定―否定を、 つぎに母―子の「関係感情」におけるエロスの肯定—否定を分節するが、禁止を転回点として、それは、禁止をめぐる子の順守と抵抗の態度を呼び分けるものとなる。「よい—わるい」は、ここではじめて人間の関係世界における「価値」審級の言葉となる。
高等な動物でも、親が子を危険から守るために力による禁止が与えられる。だがこの禁止は関係的価値としての「よいーわるい」を形成せず、ただ子の心的世界に、対象、領域、行為についての「安心―不安」という分節を形成するだけである。

*人間世界におけるはじめの「よいーわるい」の価値審級は、「初期禁止」を転回点とする母― 子の要求―応答関係の言語ゲームのうちにその起源をもつ。しかし、価値審級は単に対象や行為が「よいーわるい」と呼び分けられることで生み出されるのではない。この呼び分けが、つねに母―子の「関係感情」のエロスにおける肯定性と否定性を生み出すこと、このことが決定的なのである。

子の要求―応答関係の言語ゲームのうちにその起源をもつ。しかし、価値審級は単に対象や行為が「よいーわるい」と呼び分けられることで生み出されるのではない。この呼び分けが、つねに母―子の「関係感情」のエロスにおける肯定性と否定性を生み出すこと、このことが決定的なのである。

*こうして、人間世界に成立する「よいーわるい」という価値審級は、母―子の間の初期的ルール関係、そこでの遵守と違犯という事態にその根源的な起源をもつ。それはまず、子の身体エロス(快—不快)を呼び分ける「よいーわるい」の言葉から発して、禁止の遵守をめぐる関係感情の肯定と否定を示す「よいーわるい」の分節へと転移する。 さらにそれは子の存在自身を価値的に規定する分節すなわち「よい子―わるい子」という分節へと展開する。この言葉こそは、子を母との初期的親密関係から離陸させて家政世界へと連れ出し、そこで自らの存在承認を求める自我主体として自立させる本質的な動因となる。人間は、この地平においてはじめて、自己固有の「内的ルール」として「よい」と「わるい」をうち立て、倫理的存在としての関係的「自己」となる。すなわち 「良心」をもったり失ったりする存在となる。

*フロイトが「男根期」とする時期(三歳~六歳とされる) は、神経症的素因の源泉とされる「エディプス複合」の時期に重ねられている。だが、欲望論的発生論の観点からは、この時期は、子が、自己の感受的自己中心性と母( あるいは父)からの規範要求との間で葛藤しつつ、家政ゲームの中で「自已」の立揚を定め確立してゆく時期である。滝川一廣はフロイトの男根期を、性感的中心性を意味するというより、本質的に、子の「自我」の確立期とみなすのがよいと主張しているが、きわめて妥当である(『家庭のなかの子ども学校のなかの子ども』)。この時期に、子は、親から与えられる規範要求とせめぎあいつつ、しかし何らかの仕方で「よい子たること」を内面化していく課題をもつ。子にとってそれは、かつての感受的全能を放棄することであり、そのためさまざまな仕方での不服従と対抗が試みられるが、しかし、誰もこの課題を完全に免れることはできない。このことが果たされなければ、感受的全能と引き替えに与えられるはずの「親から愛される」という子の特権を得られないまま、幼少期を過ごすことになるからだ。

*この時期を通して、子の行為は、総じて、母(親)からの称賛と叱責という二項的な評価を受ける称賛は、多く感受的全能感の放棄や断念との引き替えによって与えられるため、子は、親(母 ・父) との間でいわば「主―奴 」の確執(へーゲル)を経験する。しかし結局のところ子は、主としての権能を親に譲りわたす運命にある。にもかかわらず、この権能の委譲は一方的なものではない。

乳児は、ある時点で、泣き続けることで感受的全能を押し通すのをやめ、泣くのを「我慢する」ことによって、その報償として母のより大きな親愛と歓待をうける。子はこれと同じ経験を「禁止」の後の段階でもう一度、一つの試練としてたどる。ここでは、自分の感受の全能を断念して親の規範― ルールを受け入れることで、それと引き替えに「よい子」という報償をうるのだ。この新しい関係的エロスの利得なしには、子による権能の放棄と断念はきわめて困難なものとなる。

*自我の主導権をめぐるこの確執は、子が母― 子の親密世界から分離して関係世界へ入り込むための必然の過程だが、子の感受的自己中心性にとっては長く続く後退戦を意昧する。この後退戦において、内的な感受性を防衛するための二つの重要な方策が現われる。それが「いいわけ」(弁明)と「うそ」である。
「いいわけ」と「うそ」は、親の規範要求に対する単なる不従順と抵抗ではない。それは、子が言語の力によって感受的中心性を守ろうとする新しい試みである。子は、自己中心性を正当化する根拠をまだ確信的にもっていない。そのため子は、言葉によって自己の失策を弁護したり、言い抜けたりする可能性を探すのだ。 これは子による一つの関係的な試み、他者、すなわち関係に働きかけて自己の新しい立場を確保しようとする、関係的企投の経験にほかならない。この経験こそは、子が、対他的な「自己意識」を、すなわち「自我」を形成してゆく重要な契機となる。


用語解説

【審級】
『度合いに分けること』だと思います。 例えば、『価値審級』ならば、『価値の度合いの区別』ということですね。
※元来の意味は、正しい裁判のために,訴訟事件を異なった階級の裁判所で反復審理させる制度がとられるが,その場合に決められる裁判所間の審判における順序関係をいう。

推薦図書

尼ヶ崎彬『ことばと身体』
第9回「「らしさ」を身体で実感する・意味の受肉」

浜田 寿美男『「私」とは何か』
第7回「敷き写し・なぞり」

おさらい
Pick Up!
「価値について」価値とは有用性の尺度

身体的感受性

|
不快

言語による分節

善とは
善とは
ほんと よい きれい
| | |
うそ わるい きたない
「言語ゲーム」と「価値」

人間は、身体的な「快・不快」を感じることから始まり、「よいーわるい」を使用した母—子の「言語ゲーム」を諸契機として「真善美」の価値の秩序をうちたてる。この価値審級が人間の世界、つまり「関係世界」を形成する基礎となる。

「意味について」分節と意味世界の喚起

ヘレンケラーの逸話

「見えない、聞こえない、話せない」三重苦だった、ヘレンケラー。
家庭教師のサリヴァン先生に教えられ、物には名前があることを知ったヘレン。
ある時、「コップ」と「コップの中の水」が同じものだと言い張るヘレンに、
ポンプから流れる水を触らせ、彼女の手のひらに「W・A・T・E・R」と指で書きました。
ヘレンは、その時初めて「水」という言葉の意味を理解したのです。
その瞬間を暗黒世界に光明が指したと表現しています。

「分節」=「存在喚起」

竹に節があるように、言語は、混沌としたのっぺらぼうの世界に、境界線を入れ、
図のA.B.Cのように、分節して、世界を意味付けします。

言語による分節によって初めて、存在が喚起(呼び起こ)されます。
つまり、言語による分節が、もともとカオス(混沌)だったものを、コスモス(意味世界)に変えます。

「分節」=「存在喚起」

「言語の意味は、言語の用法である」とヴィトゲンシュタインの言葉です。
「意味」は言葉に内在するものではなく、「言語ゲーム」のうちで
当事者のあいだの関係的了解としてたえず、生成(消滅)するものだということです。
その言葉を正しく使える( 関係的了解として成立させる)ことが、
意味を理解していることと言い換え得ることもできます。

第2回『新・哲学入門』著竹田 青嗣|レジュメ 講師:居細工 豊
第2回『新・哲学入門』著竹田 青嗣|レジュメ 講師:居細工 豊

宿題

設問

本文の最後にある、 「これは子による一つの関係的な試み、他者、すなわち関係に働きかけて自己の新しい立場を確保しようとする、関係的企投の経験に他ならない。この経験こそが、子が、対他的な『自己意識』を、すなわち『自我』を形成していく重要な契機となる。」について、 「対他的な『自己意識』を、すなわち『自我』を形成していく」とあるが、人間の自我形成のプロセスを段階的に説明し、さらに、「自我」について、理解が深まった点を説明せよ。(200~300字)

回答のお手本

人間の自我形成のプロセス
第一段階は「母」による「禁止」をきっかけとする。それまで子が要求するほとんどのことは無条件に受容されていた。
ところが、必ずしも要求が受け入れられるとは限らないということをこの段階で経験する。
第二段階は、子に対する母の「よいーわるい」という評価が、この特定の行動のみならず、この態度全般を指すものとなる段階である。この段階で「よいーわるい」は人間の関係世界における「価値審級」の言葉となる。
第三段階は、この存在自身を価値的に規定する、「よい子ーわるい子」へと展開する段階である。この段階で人間は自己固有の内的ルールとして「よい」「わるい」を打ち立て、「良心」をもったり失ったりする存在となる。

参加者の回答

回答 1

自我形成のプロセスは、子が親からよいーわるいという価値基準を学ぶことから始まる。
初めに子は、身体的な快ー不快、関係感情の快ー不快からよいーわるいを学ぶ。
次に親による子への禁止命令が、よい子ーわるい子という判断に繋がることを学ぶ。
そして子は親の愛を獲得するために、自分の欲望を我慢することによって、よい子という承認を得ようと努力する。
一方で子は我慢したくないとき、その自己中心性を言語で正当化できないために、いいわけやうそを使う。
これらの行為が自我形成の大きなきっかけとなる。

「自我」について理解が深まったのは、子の自我を形成するのに親の価値が大きな影響を与えているという点だ。

回答 2

「自我」は母からの禁止を契機に母-子の双方向的な言語ゲームの過程で形成される。
まず母は身体や関係感情について「よい-わるい」という言葉を用いて快-不快を子に呼びかけた後、対象と行為への禁止を行う。
次に母は禁止の遵守をめぐる関係感情の否定と肯定を示し、子の存在の価値審級として規定する。
子は自らの存在承認を求め、自己固有の内的ルールとしての「よい-わるい」を打ち立てることで倫理的存在としての関係的「自己」を形成する。

対他的な試みとして、権能の放棄や断念、言語による自己中心的感受性の防衛を行い、譲歩と主張の反復の中で人は自我を確立する事から、自我は他者との関係性の中に確立されることを理解した。

回答 3

母子関係は「一方向的な要求―応答ゲーム」から、母からの禁止を契機に「双方向的な言語ゲーム」へと移行する。
言語ゲームの中の「よい-悪い」という言葉は、「身体エロス」の肯定と否定、次に「関係感情のエロス」の肯定と否定を生み出す。
子は母からの禁止への順守と抵抗の応答のうちに、「よい子たること」と「感受的自己中心性」との間でせめぎ合いながら、関係的「自己」、自らの存在承認を求める自我主体となっていく。

母親との関係を礎に、「他者との関係」の中に自我がある。自分と他者とは切り離された存在ではないので、両者を同様に理解し尊重することは、よりよく人生を歩む合理的な方法であると理解した。

回答 4

《自我形成のプロセス》
自我を形成するための「よいーわるい」の判断の第一段階は「身体的エロス」の段階。つまり言語のない世界のこどもである。第二段階は母と子の「言語ゲーム」で遂行される、「初期禁止」の段階。第三段階は「いいわけ」と「うそ」の段階。 言語の力で、他者から自己中心性を守ろうとする段階。

《自我について》
自我とは自分が考える(想像する)自分ということができる。しかし、そんなことは現実にはできない。なぜなら自我を形成していく上で、他者との関係性を構築する言語ゲームが必要となるからだ。言語ゲームの中で他者承認を得ながら、自己とは何かを見つけていくのだ。他者からの承認を得てこそ、「自我」というものが形成されるからである。

回答 5

人間は母-子間で交わされる「よい-わるい」の言語ゲームの中で、初めに身体エロスの是非を経験し、次に関係感情のエロスと引換えに感受的全能を放棄し、そして規範要求に対する順守-抵抗という葛藤を経て、他者に対する自己の存在承認を求める自我が形成される。

この自我形成のプロセスは、人間にあって動物には存在しないもの、つまり他者との関係感情、言語ゲーム、それらに基づく価値審級があって初めて成り立つものだという点に学びがあった。

回答 6

自我形成プロセスの段階は、まず、「よい子―わるい子」という分節により、子は自我主体として自立する。次に、言語の力、つまり「いいわけ」と「うそ」により関係に働きかけて自己の新しい立場を確保しようとする。これが自我形成において重要な契機となる。

 自我についての理解が深まったのは、自我は、関係性の中で芽生え形成されていくという点である。つまり、私(自己)のみでは自我は形成されず、他者(特に幼少期は親)との関係世界の中で形成される。