講師:居細工 豊
第五章 幻想的身体論
2.現象学的身体論
*モーリス・メルロー=ポンティは、現象学の方法によって「身心問題」の難問に迫った点で特筆すべき哲学者である。『行動の構造』や『知覚の現象学』における彼の身体論哲学は、ポストモダン思想(ドゥルーズやジャック・ラカン)によって批判されているが、哲学の原理からは、メルロー=ポンティの身体論は「実存的原理」を内在しているという点で、記号論(すなわち形式論理学)を方法原理とするポストモダン的身体論をはるかに抜きん出ている。
一方、実証主義を方法原理とする心理学は、生理学的認識を基礎とするため、身体における「意味」、「情動」、「知覚」といった「心的な契機」の問題にアクセスできない。メルロー=ポンティの「身体論」では、現象学の方法がこの問題を克服する方法として自覚的に用いられる。
メルロー=ポンティのつぎの言い方は、的を射ている。実証主義は、身体を事物的な因果の連関として対象化する方法をもつ。だがこの方法は、人間身体における「世界を対象化する」という本質には決してアクセスできない。 《私の身体とは一般に対象が存在するようにさせている当のもの》(『知覚の現象学』1、竹内芳郎・小木貞孝訳、P163)である。実証主義の方法はどこまでも事物的な因果の系列として身体を対象化する。すなわちここで身体は対象化されるのだが、身体自身を諸対象を「対象化する」原理として捉えるやいなや、その方法的限界はただちに明らかになる。そして彼はいう。この身体の独自の本質は、ただ本質の学である現象学によってのみ捉えられると。
*こうしてメルロー=ポンティは、身体経験の領域としての「現象野」(現前意識)を、固有の探究領域として設定する。ここで「現象野」とは、フッサールのいう「純粋意識」に等しいが、ただし身体現象についての経験的「意識」の地平、を意味する。すなわち、現象野に定位する直接的な内省によって身体という経験の本質洞察するという方法によって、彼の身体論はそれまでのあらゆる身体論に対して明らかな優位をもっている。さらにつけ加えるべき点がある。身体の「現象野」という概念には、「純粋意識」に定位するフッサールの方法の弱点を克服しようとする動機が、自覚的に込められている。フッサールの方法では、身体の本質観取とは、われわれが身体を自己身体として確信するその条件の観取を意味する。だが現象野に定位するメルロー=ポンティの洞察は、身体が諸対象を対象化するその本質構造の観取をめがけるのである。
*よく知られている「地と図」のスキーマ。 主体が何らかの対象を「知覚」するには、視覚野において、最低ある二種の領域、すなわち「地と図」という二領域が区分されている必要がある。知覚作用におけるこの「地と図」の構図の指摘は、フッサールにおいても顕在的知覚とその背景野という言葉で呼ばれている。しかし「地と図」の概念には、人間の視覚が単に外的な印象を受容するだけではなく、すでに一つの志向、判断、選択という主体的「対象化」の作用性をもつことの指摘が含まれている。 すなわち、この概念によって、メルロー=ポンティは、感覚や知覚といった身体現象の本質が、生理学的な過程としては把握不可能な、それ自体一つの「分節的原理」であることを示している。対象を知覚するとは、何かに注意しつつ、問題となる対象を「図」としてその背景野(地)から切り出して把握することであり、それゆえそれは、「一つの新しい分節化を実現すること」なのである。 ただし、メルロー=ポンティの身体論にも一つの弱点があり、それは指摘しておかねばならない。いま見たような方法上の卓越にもかかわらず、ここでも、心的なものと物質的なものの二元論を「両義性」の概念によって一元論的に統合―克服しようとする構図が (ベルクソンで見たように)、やはりぬぐえない形で存在する。メルロー=ポンティでは、「身体」とは繰り返し心的なものと物的なものとがそこで「相互浸透」しつつ両義的に統一されている領域、という像を結んで現われるのである 註 。
*たとえば、メルロー=ポンティは、人間身体の本質をとらえるために「幻影肢」の問題や精神疾患研究で知られるゲルプとゴルトシュタインのシュナイダー症例を取り上げる。 シュナイダー症例では、患者は生活に必要な具体的運動は行なえるが、指示や命令にもとづく抽象的な運動は行なえない。つまり何気なく鼻をつかむことはできるが、鼻を指でさせという指示には適切に応じることができない。また幻影肢では、患者は、失って存在しない自分の腕や手の感覚をありありとした実在として(ある場合激しい痛みとして)感覚する。これをどう理解するべきか。 ここでメルロー=ポンティは一切を生理―物理的因果へ還元する実証主義と、生理的機能と心理的機能を事前に区別して説明する心理学的主知主義の双方を退ける。どちらの方法も、障碍(しょうがい)をもつ身体性が患者自身にとってもつ実存的本質を捉えることができない。腕の切断手術を受けた人間が幻影肢をありありと感じるその仕方は、われわれがいま目前に存在していない親しい友人をありありと思い描くことができるその仕方と似ている。幻影肢とは、現前しない腕の「表象」ではなく、患者の腕が世界のうちで備えていた実存可能性の「両義的現前」なのであると。 ここでも、人間の身体が、生理学的な物理性と実存的な心理性との「両義性」としての 「相互浸透」として存在するという一元論的統合の構図が現われている。たがこの構図は、むしろ現象学の根本方法を覆い隠すような側面をもつのである。 註:「相互浸透」は、哲学者竹内芳郎がメルロー=ポンティ哲学の特質として呼んだ概念で、その特質をよく言い当てている。 繰り返しみたが、一切の確信―認識を「純粋意識」(現象野)に還元するというフッサールの方法の優位は、二元論の一元論的統一という構図ではなく、主観―客観、精神―物質という二元論的前提それ自体を廃棄して、これを一切の世界確信の構成の構造へと置き換える点にあるからだ。 だがしかし、「両義性」といった表現にもかかわらず、メルロー=ポンティの身体論の核心をなすものは二元論の一元論的統合とはいえない。「身体」という独自の対象の本質は、実証主義の方法的原則によって把握することは不可能であり、ただ現実的な「身体経験」の地平自身からその経験的本質が観取されねばならない、というのがメルロー=ポンティの現象学的方法の原則だからである。 この方法的特質は、繰り返し「意味」、「価値」そして「実存」などの用語によって示されている。《視覚はすでに一つの意味によって住まわれているのであり、この意味が視覚にたいして、世界の光景のなかでもわれわれの実存のなかでも一つの役割をあたえているのである》(メルロー=ポンティ『知覚の現象学』1、p103)
*ではフッサールはどうだろうか。フッサールでは、現象学的身体論と呼べるものは後期の草稿に断片的に散見されるだけで、まとまった形では展開されていない。しかし、『デカルト的省察』では「自我」論が展開され、そこに身体論につながる「自我発生」や「一瞥(いちべつ)知覚」といったきわめて重要な概念が現われている。 ここでフッサールは「自我」の概念を大きく二つに分ける。第一に「習性の基体としての自我」、第二に、「豊かな具体性としての自我(モナド)」。 第一は、「私はつねに私である」という人間の自己意識の同一性を支える確信条件は何か、という問いである。この「自己同一性」の問いは、現代思想では、人間の「同一性」についての厳密規定の不可能性の議論、つまり相対主義的パラドクスの定型的議論としておびただしく氾濫した(ラッセルの「世界五分前創造仮説」、カレン・アームストロングの神による同人物創造説、ディヴィッド・チャーマーズの「哲学ゾンビ」、ウイラード・ヴァン・オーマン・クワインの四次元主義ドナルド・デイヴィッドソンの「スワンプマン」等々)。しかしこれら思弁的な帰謬論証は、どれもゴルギアス・テーゼの不可能性論証を変奏したものにすぎず、人間の「自己意識」の本質については何も教えない。
*この問いについてのフッサールの答えは、じつに簡潔、明瞭である。 あるときロンドンに旅行してその街を楽しみ、あるとき、誰それを強く憎み、また誰かを強く愛した、等々の過去の経験を私がもつ。さて、これらの経験について、《その確信が、わたしに対して効力をもつあいだは、わたしは何度でもその確信に立ち帰ることができる。》そしてそのかぎりで私は、自己自身を《恒常的な自我として(中略)見出すわけである》(『デカルト的省察』'船橋弘訳、P249)。 すなわち、自分の過去のさまざまな経験を、つねに自分自身の経験として、整合的な時間的秩序において反復的に想起できるかぎり、誰であれ、「私は私だ」という自然な自己確信を維持する(構成する)。 逆にいうこともできる。人は、たえず自分のさまざまな経験事象、その諸感情、認識や価値判断、決心などを想起するが、これらの経験における感情、認識、判断、決心が誰かに自分自身のものだという感覚(確信)が、つねに同じ仕方で反復されるかぎり、誰であれ「自己の同一性」についての自然な確信を維持する、と。 すなわち、「私」の同一性という問題は、これを「本体」としての私の確証ではなく、 経験の地平(現前意識)で生じる「自己確信」の構成の問題として把握するかぎり、どんな不可能性やパラドクスも現われず、誰にとっても同一の条件として確証される。 「私」の同一性は、実存する私にとっては、ただ、現前意識における私の経験についての自己確証の反復可能性という条件に依存する。この条件を失えば、精神的な障碍においてそうであるように、われわれの「自己」は失調し分裂する。
*第二の「豊かな具体性としての自我」の問いは、私(自我)が、世界をつねに「生き生きとした豊かな具体性」として認知―経験する、その内的条件の問いを意味する。そして こちらの問いが「心身問題」において、決定的な重要性をもっている。 《事物は、多様な現われ方において、いいかえれば、統一的な視覚的あるいは触覚的な知覚像として現われるが、それらの明らかに受動的な総合においいて、一つの事物とか、その事物における一つの形態などが現われるのである。 だが、まさにこのような総合は、このような形式をもつ総合として、総合それ自身の中で示されるみずからの歴史をもっている。わたし、すなわち自我が、すでに最初の一瞥に おいて事物を経験することができるのは、本質的発生によるのである》(同前、P263)。 ここでも、フッサールの意をデフォルメしてみよう。たとえば、われわれが一軒の家を見るとき、その家のさまざまな性格を、つまりそれが民家か、何かの施設か、裕福な人の邸宅か、といったことを「最初の一瞥」だけで観て取る。それだけでなく、家のさまざまな部分、窓、屋根、白壁、扉やそのノブなどについても、とくに注意深く観察することなく「一瞥において」その大まかな諸性質を把握する。 その家の高価さ、瀟洒(しょうしゃ)な味わい、デザイン上の工夫、さらにいま見えていなくても、 家の中の居間やキッチンの具合や、この家に住む人についての想像的な直観が、生き生きとした判然性において私にやってくる。 われわれの知覚には、そうした仕方で「一瞥のうちに」対象を豊かな対象性として把屋する独自の能力がある。つまり人間の対象知覚とは、カントのいう感性や悟性による対象意味の綜合ということを超えて、対象を、それが内包する豊かな意味、情報、価値、エロス性などの網の目(=全きノエマ)として直観的に観て取ることである。人間の知覚のこうした独自の能力をどう考えればよいか。
*フッサールはいう。誰もがもつこの「一瞥的」対象把握の能力は、自我の「受動的綜合」によると。「受動的綜合」とは、すなわち個人の経験の反復の累積によって形成された、「自我」の綜合的な対象直観の能力にほかならない。 たとえば、狩人は周囲の様子の微妙な変化によって獲物についての多くの情報を察知する。熟達した鑑定家はふつうの人間が見分けられない骨董の価値を、一瞥のうちに観取する。もっと素朴にいえば、子どもがリンゴを一瞥してその「何であるか」をすぐに理解するのは、子どもがすでにリンゴの体験を幾度も繰り返しているからである。 われわれが一瞥のうちに対象の豊かな意味―価値性を直観的に把握するのは、こうした経験の累積の結果である(私はこれをやや拡張して「一瞥知覚」と呼ぶ)。この経験の歴史的累積による感受能力の形成を、フッサールは、「受動的発生」、「自我発生」、「普遍的発生」 あるいは「本質的発生」などの概念で呼ぶ(どれもほぼ同義)。 人間の知覚のもつこの豊かな「一瞥的」対象把握の能力は、すでに古くアリストテレスが「共通感覚」の概念で指摘し(『心とは何か』桑子敏雄訳)さらに、より本質的には、プラトンが示唆した、なぜ単なる色や形を見る能力としての視覚が花の「美しさ」を感知するのか、という問いにつながつている。
註:《たとえ、だれかがぼくに、あるものが美しいことの原因として、あざやかな色とか形とか、その他、何かそのようなものをあげたとしても、ぼくはほかのものは無視して(中略)ただつぎのことだけを、単純に、率直に、そして、おそらく愚かしく固執 する。/すなわち、ものを美しくしているのは、ほかでもない、かの、美の臨在と言うか、共有と言うか、(中略)すべて美しいものは美によって美しいということだ》(プラトン『パイドン』池田美恵訳、P559)
フッサールは、知覚のもつ一瞥的な対象把握の能力を「自我」の能力、つまり「自我発生」の問いとして語る。だが、欲望論の観点からはこの一瞥知覚の能力は、むしろ人間の「身体」の本質論として展開されねばならない。人間は視覚をとおして対象の色かたち (またその一般意味)だけでなく、その「美しさ」を感受する。この能力は「人間的身体」に固有の能力であり、実証的な生理学や心理学の方法によってこの「美的感受性」の本質を説明することは決してできない。
*欲望論的には、動物の世界が「環境世界」であるのに対して、人間の世界は他者との関係幻想が織りなす「関係世界」である。動物の身体は生理的な身体だが、人間はその身体を「関係的身体」として、あるいは「幻想的身体」として形成する。 幻想的身体は、人間的関係世界を、諸対象の価値性、エロス性として感受する人間固有の身体性である。人間身体についての哲学的本質論は、心身二元論の枠組みを廃棄して、人間的身体における世界の感受能力の生成の構造を把握する「幻想的身体の発生論」の形を取らなくてはならない。


現象学的身体論
現象学的方法の原則
意味・情動・知覚といった「心的な契機」・「人間固有の身体性」にアクセスするために。
実証主義的(身体を事物的な因果の連関として対象化する)心身二元論の枠組みの廃棄
二元論の一元論的統一という構図ではなく、主観―客観、精神―物質という「二元論的前提それ自体を廃棄」
一切を「世界確信の構成の構造」へと置き換える
現実的な「身体経験」の地平自身からその経験的本質が観取されねばならない。
※視覚はすでに一つの意味によって住まわれているのであり、この意味が視覚にたいして、世界の光景のなかでもわれわれの実存のなかでも一つの役割をあたえているのである(メルロー=ポンティ)
「身体が諸対象を対象化する」
メルロー=ポンティ
「対象化する」身体の本質
「地と図」の概念には、人間の視覚が単に外的な印象を受容するだけではなく、
すでに一つの志向、判断、選択という主体的「対象化」の作用性をもつ。
すなわち感覚や知覚といった身体現象の本質が、生理学的な過程としては把握不可能な、それ自体一つの「分節的原理」であることを示している。
人間的身体に固有の能力「一瞥知覚」
フッサール
「一瞥知覚」と「経験の歴史的累積による感受能力」
われわれが一瞥のうちに対象の豊かな意味―価値性を直観的に把握するのは、こうした「経験の累積の結果」である(私はこれをやや拡張して「一瞥知覚」と呼ぶ)。この経験の歴史的累積による感受能力の形成を、フッサールは、「受動的発生」、「自我発生」、「普遍的発生」 あるいは「本質的発生」などの概念で呼ぶ(どれもほぼ同義)。

欲望論的「身体論」竹田青嗣
「幻想的身体の発生論」
欲望論的には、動物の世界が「環境世界」であるのに対して、人間の世界は他者との関係幻想が織りなす「関係世界」である。動物の身体は生理的な身体だが、人間はその身体を「関係的身体」として、あるいは「幻想的身体」として形成する。
幻想的身体は、人間的関係世界を、諸対象の価値性、エロス性として感受する人間固有の身体性である。
人間身体についての哲学的本質論は、心身二元論の枠組みを廃棄して、人間的身体における世界の感受能力の生成の構造を把握する「幻想的身体の発生論」の形を取らなくてはならない。
宿題
本文に、 「人間は視覚を通して対象の色かたち(またその一般意味)だけでなく、その「美しさ」を感受する。この能力は「人間的身体」に固有の能力であり、実証的な生理学や心理学の方法によってこの「美的感受性」の本質を説明することは決してできない。 とあるが、実証的な生理学や心理学の方法によってこの「美的感受性」の本質を説明することは決してできないのはなぜか、その理由を、メルロ=ポンティやフッサールをふまえて、丁寧に説明せよ。
回答のお手本 1
人間の世界は他者との関係が織りなす「関係世界」である。動物は生理的な身体だが、人間はその身体を「関係的身体」として、あるいは「幻想的身体」として形成するため、実証的な生理学や心理学の方法では「美的感受性」の本質を説明することはできない。美的感受性は、身体の外から測れる反応ではなく、内に蓄積された経験からつくられるものであり、現象学によってのみ本質を理解できるのである。
メルロ=ポンティは「実証主義は、身体を事物的な因果の連関として対象化する方法をもつ。だが、この方法は、人間身体における世界を対象化するという本質にはアクセスできない」としている。幻影肢で考えると、実証主義では現前しない腕の「表象」と捉えるが、現象学では、患者の腕が世界のうちで備えていた実存可能性と捉えることができる。
フッサールは、われわれの知覚には、一瞥のうちに対象を豊かな対象性として把握する独自の能力があると示した。人間が意味―価値性を直観的に把握するのは「受動的綜合」、すなわち経験の反復の累積によって形成されるからである。人間は視覚をとおして対象の色かたち(またその一般的意味)だけでなく、その「美しさ」を感受する。したがって、実証的な生理学や心理学の方法によって「美的感受性」の本質を説明することは決してできない。 (560)
回答のお手本 2
メルロー=ポンティは「地と図」の概念を通して、人間の視覚が単に外的な印象を受容するだけではなく、志向、判断、選択という主体的「対象化」の心的作用を伴っていることを指摘した。
またフッサールは「自我」の概念の中で、一瞥のうちに対象の豊かな意味―価値性を直観的に把握するのは、経験の累積の結果だと説いた。
人が美しさを感じるとき、その知覚はこれらの心的過程を経て生まれている。人間の身体固有の心的現象に対して本質観取を行わない限り、この感受性の本質には迫れない。
以上から「心的な契機」の問題にアクセスできない生理学や心理学では、原理的に「美的感受性」の本質を説明することが出来ないと言える。/293字
回答のお手本 3
実証的な生理学や心理学の方法によってこの「美的感受性」の本質を説明することは決してできないのは、メルロ=ポンティが言うように、実証主義は、身体を事物的な因果の連関として対象化する方法を持つが、この方法は、人間身体における「世界を対象化する」という本質には決してアクセスできないからである。
つまり、感覚や知覚といった身体現象には、すでに一つの志向、判断、選択という主体的「対象化」の作用性があり、生理学的な過程としては把握不可能な、それ自体、一つの「分節的原理」であるからである。
また、フッサールが言うように、近代の人文科学は、自然世界と人文領域の世界の存在本質の差異を看過し「自然の数学科」と言う自然科学的方法が、人文領域の普遍認識として無効であることを理解しなかった。
われわれ人間の知覚は、経験の累積の結果、一瞥のうちに対象の豊かな意味–価値性を直観的に感受(把握)するのだが、それは定量的方法では捉えられない。これが、実証的な生理学や心理学の方法によっては「美しさ」を感受する「人間的身体」に固有の能力を説明することが決してできない理由である。(470文字)
参加者の回答
人間は、自身の過去の経験に基づき目の前に現れたものが「何であるか」を認識している。これは、フッサールが提唱する「一瞥的な」対象把握の能力で、実証的な生理学や心理学の方法によって説明できる。しかし、目の前に現れたものの「美しさ」を、人間がどのように認識しているかについては、人間の視覚が「一つの志向、判断、選択」という主体的「対象化」の作用を持つという、メルロ=ポンティの指摘を踏まえないと説明できない。メルロ=ポンティの指摘によれば、目の前に現れたものを知覚するという作用は、何かに注意しつつ、目の前に現れた対象のある部分を切り出して把握することである。この「何か」にあたるのが、われわれ人間の身体にもともと備わっている「欲望」であることは言うまでもない。(320)
メルロ=ポンティは「僕らの体が世界とつながっているから、美しいと感じてるよ」と言っています。フッサールは「僕らの心は、ものを見るだけじゃなくて、そこから意味や価値を考えているんだよ」といいます。科学は目や脳の動きは教えてくれるけど、心の内側や、どう思われるのかまでは教えることはできません。
だから、美しさ(美的感受性)を感じる自身の「体験」「経験」や「心のはたらき」も、科学の力では全部説明できない。説明できるのは欲望論を知ったときだけである。
「身体」という独自の対象の本質は、実証主義の方法的原則によって把握することは不可能であり、ただ現実的な「身体経験」の地平自身からその経験的本質が観取されねばならない、というのがメルロ=ポンティの現象学的方法の原則だからである。
この方法的特質は、繰り返し「意味」、「価値」そして「実存」などの用語によって示されている。《視覚はすでに一つの意味によって住まわれているのであり、この意味が視覚にたいして、世界の光景のなかでもわれわれの実存のなかでも一つの役割をあたえているのである。
フッサールは、知覚のもつ一瞥的な対象把握の能力を「自我」の能力、つまり「自我発生」の問いとして語る。だが、欲望論の観点からはこの一瞥知覚の能力は、むしろ人間の「身体」の本質論として展開されねばならない。人間は視覚をとおして対象の色かたち (またその一般意味)だけでなく、その「美しさ」を感受する。この能力は「人間的身体」に固有の能力であり、実証的な生理学や心理学の方法によってこの「美的感受性」の本質 を説明することは決してできない。
メルロー=ポンティの「身体論」は、実証主義や心理学的主知主義を退ける。
身体を事物的な因果連関として対象化する実証主義の方法では、人間身体が「世界を対象化する」本質にはアクセスできないからである。
メルロー=ポンティの洞察は、身体が諸対象を対象化するその本質構造の観取をめがける。
心理学や生理学、または主観―客観、精神―物質という二元論的前提を置く方法は、人が美しいと感じることを、人と対象の因果連関で感受性を捉えようとする。しかし、人間的身体自身が「なぜ美しいと感じるのか(美しいと感じる原因)」の美的感受性の本質を洞察することはできない。
フッサールは一切の確信―認識を「純粋意識」(現象野)に還元する方法によって、人が一瞥のうちに対象の豊かな意味―価値性を直観的に把握するのは、経験の歴史的累積による感受能力の形成によってだと考える。
「美的感受性」は事実学としてではなく、経験の地平(現前意識)から「幻想的身体の発生論」として本質を捉えるより方法がない。
実証主義は、どこまでも事物的な因果の系列として身体を対象化する。だがこの方法では、「世界を対象化する」(分節的原理)という身体の本質には決してアクセスできない。
そのため、身体の「経験的本質」を内省によって観取する現象学の方法をとる必要がある。
それによって初めて、美的感受の能力は、個人の対象直観の経験反復の累積によって形成された、綜合的な対象直観の能力であることが分かるから。
モーリス・メルロー=ポンティは、「地と図」の概念から身体現象の本質が生理学的な過程としては把握不可能なものとして示している。また、対象を知覚するとは、問題となる対象を「図」としてその背景「地」から切り出す主体的分節であると示している。
フッサールは、一瞥的対象把握の能力は自我の「受動的綜合」によるものである。「受動的綜合」とは、個人の経験の反復の累積によって形成された「自我」の綜合的な対象直観の能力にほかならないと示している。
このことから、実証的な生理学や心理学の方法によってこの「美的感受性」の本質を説明することは決してできないといえる。(277)
序論 実証的生理学・心理学は身体を因果連鎖として測定するが、美的感受の本質には届かない。
本論 フッサールによれば、知覚は受動的綜合により一瞥で対象の価値性を与える志向的営みである。これは測定値の総和ではなく、歴史的経験の地平から立ち上がる意味構成である。メルロ=ポンティは、身体それ自体が地と図の分節を通じ世界を顕現させる場だと説く。美はこの生きられた身体の志向的現前として現れるため、器官機能や刺激反応へ還元すれば、現象そのものを取り落とす。 結論 ゆえに美的感受の本質は、第三者的因果説明ではなく、第一人称の現象学的記述によってのみ把握される。 /273字