講師:居細工 豊
第三章 欲望論哲学の開始
1、欲望相関性
*人間の価値-意味領域の把握の本質的モデルは、まず、ニーチェの「力」の哲学のうちに見出される。すでに見たが、ここでは生き物の「生の力」が世界を分節する。そしてこの分節自体が根本的な「価値評価」として遂行される。すなわち、「力」という中心による世界の根源的な分節は、始元の世界認識を意味し、同時にそれは、それ自体一つの価値分節である。 このニーチェの力相関性の構図による認識論的―存在論的転回を、私は「欲望相関性」の概念へと転移し、「価値の哲学」の権利的始発点として設定しよう。その根本テーゼは、「世界は欲望の相関者としてのみ分節される」となる。 欲望相関性の概念は、「内的体験」、「エロス的力動」、「世界分節」の三契機によって構成される。
(1)「内的体験」
*意味と価値は実存範疇であって、事物、事実の範疇(カテゴリー)ではない。その第一の契機は、バタイユのいう生き物の「内的体験」の概念によって示される。
《私は、即自的な〔無自覚な〕実存から対自的な〔意識的な〕実存への進展を、複雑さや人間性に結びつけられずにいる。それどころか私は、微生物以下の無機的な粒子にさえ対自的な実存があるとみなしているほどだ。この対自的な実存を私は、内部の体験、内的体験 と呼びたい》(『エロティシズム』酒井健訳' P165)
すべての生き物は、生の内的な体験すなわち「内的実存」の世界を生きる。ここでバタイユが示唆する微生物以下の粒子にさえあるかもしれない最下限の「内的実存」を、一つの仄(ほの)かな「明るみ」の閃き(ひらめき)になぞらえることができる。絶対の無明(むみょう)世界に一瞬、最も仄かな「明るみ」が閃くように、有機的世界の暗瞑(あんめい)のうちに最下限の実存の明るみが閃く。これが生の、つまり「内的世界」の生成の端緒である。 実存におけるこの初源の閃きは、伝統的に「明るみ」あるいは「光」の比喩によって描かれてきた。だが「光」の比喩は、見ること(視覚)の特権性を強調しすぎている。「内的生」の初源の発動は、むしろ触覚に、つまりエロス的触発の発動として比喩されるべきであろう。およそ「価値」とは、内的実存の世界におけるエロス的触発-情動の生起、発動を、そのすべての展開形態の源泉とする。
(2) エロス的力動(情動性)
*物理世界の生成変化の根本的な原因(動因)をわれわれは「力」の概念で呼んでいる。 これに対して、心的領域(内的実存)における生成変化の根本動因は、「エロス的力動」の 概念で呼ばれねばならない。 両者には同じ「力」の概念があてられるが、しかしその本質は完全に異なっている。あたかも鉄が磁石に引きつけられるように、飢えた生き物は滋養物に引き寄せられる。しかし磁力はあくまで物理的な力だが、「エロス的力動」は「内的体験」の世界に生じる心的力動である。両者はある仕方での連関をもつが、にもかかわらずその本質において相互に 完全に還元不可能である。 プラトンは恋人の美が人を引きつける力を「エロース」と呼んだが、われわれはこれを受けて、「内的体験」の世界に生じる心的変化の動因を「エロス的力動」の語で示す。 客体化され客観化された「外的世界」に働く物理力と、「内的体験」(実存)の世界で働くエロス的力動の区別は、意味と価値の哲学における絶対的前提である。両者を混同する ことは意志の力と筋肉の力を一つのものとみなすことと等しい(以後、この心的力を揚合に応じて〈力〉で示す。)
*鉄が磁石に引きつけられる力動性と、植物の蔓(つる)が光へと伸びる向日的な力動性は、物理-化学的な力動性として同じ本質をもつ。しかしたとえばアメーバのような原生的生物が、滋養物に引きつけられて接近する力はどうみなされるべきか。コンラート・ ローレンツに興味深い証言がある。《アメーバが生きている培養皿の上で自由に観察するならば、彼らの行動の多面性と適応能力には驚嘆せざるをえない。もしアメーバがイヌと同じ大きさだったら、だれもがアメーバは主観的体験をもつとためらいなく主張するだろう、と最高の原生動物学者H・S ・ジェニングスはいっている》(『鏡の背面』谷口茂訳、P104)。
アメーバは、植物と動物の境界線上にある生き物とみなされ、その動性が「主観的体験」をもつか否かは確証されていない。しかし、ここで生物学者の観察は、アメーバの動性に「主観的体験」を直観していることが分かる。 ある生命体の対象への接近や離隔という動きが、もし、周囲の溶液のイオンや電荷の変化といった物理的因果の系列としてすべて説明されるなら、それを「動物的生」とみなす理由はなくなる。ジェニングスのような主張は、対象の動きに、物理的連関からは説明し尽くせない何らかの「エロス的力動」を直観するときに現われる。こうした動物学者の直観は、この生命の運動が、われわれがもつ内的な「エロス的力動」と同じ〈力〉の発現であるに違いない、という内省的な直観に依拠しているのである。
*現代の電脳論者や実在一元論者(ダニエル・デネット、ヒューバ-ト・ドレィファス、ポール・ チャーチランドなど)は、一切の「心的体験」は、完全に物理的な連鎖として説明されうる、という心理-物理還元論を主張する。だが、この主張は、哲学的には、どこまでも実証しえない単なる希望的空想にすぎない。 つまり、ゴルギアスにならえぼ、「心的なもの」と「事物」とはその存在の本質を異にする、すなわち両者は、その存在審級を異にする。 このことが意味するのは、右の論者たちの「論証」がよく表現しているように、両者の関係は、ただ寓喩、物語の方法によってその「類似性」を示すことしかできない、ということだ。つまり「心的世界」の生成変化と 「事物世界」のそれを、同じ認識方法、同じ言語のルールによって「同一のもの」として 表現することは、原理的に不可能なのである。
*一元論者たちの議論は、現代の相対主義者の議論と同じく恐ろしく煩雑化されているが、その推論の核心は簡明に取り出すことができる。 意志によって腕が動く。これは心と物の本質的連関の明らかな証拠である。感情のみが動く場合でも、腕は動かないとしても脳内の神経-細胞には何らかの「変化」が生じている。つまり、どんな事物的変化もない心的変化はありえない。 それゆえ、自然科学の方法の精髄である「測定技術」の高度な進歩は、いずれ「心」と「物」の動きのあいだの厳密な相関性を記述しうるはずだ。この身心の厳密な相関図式は、やがてさらに、「物→心」の相関構図へと変換可能であるに違いない(機械から思考を作ることができるはず)・・・ 。 こうした推論は、一元論的科学者たちにとって魅惑に充ちた誘惑である。だが哲学的には、この推論は、多少の訓練をつんだ相対主義者なら、容易にその確実性を相対化し無化できるようなものにすぎない。
*音楽(交響曲)の響きはわれわれに感動を与える。現代科学の技術は、交響曲の複雑な 響きを正確にデジタル記号に変換し、さらにこのデジタル記号を音楽の響きとして再現することができる。さて、身心一元論者は、いわばこの事例から、高度な技術は交響曲が人に与える感動を再現できると主張する人間に似ている。しかし、われわれは、空気の複雑な振動とそれがもたらす感動は、存在審級が異なるというほかはない。 もう一つ。総じて、何らかの対象知覚を契機として、われわれのうちにさまざまな欲望が生じてくる。それは一定の条件に応じて強度を増したり減衰したりする。この欲望の変化を、科学者は、知覚細胞の刺激、像的連想、欲望(リビドー)の増大、神経組織の興奮、神経の疲労と鎮静などの生成変化の系列として記述するだろう。しかしこうした記述には、すでに事物連関の系列と心的変化の系列が無秩序に混淆(こんこう)されている。欲望の増大をリビドーエネルギーの増大として描写するや、それは単なる「比喩」による「世界説明」となるほかないのである。
*このことをさらに簡潔に論理的に示すことができる。物理世界の生成変化は、ただ一義的な因果連関のデジタル表記としてのみ把握されうる。しかし心的世界の生成変化は、むしろ生成変化の連関における、留保、躊躇、判断、決断といった契機を本質的にもつ。そしてこの契機を端的に「自由」の契機と呼ぶことができる。心的世界の生成変化が本質的 にもつ「自由」の契機は、物質世界の生成変化の把握における因果連関的記述とは根本的に相容れない二つの領域の認識は原理的に相互に還元不可能なのである。 事物世界と心的世界は存在本質(存在審級)を完全に異にするため、心的世界の普遍洞察は、事物世界の方法とは完全に異なった認識方法を必要とする。われわれは、心的世界の生成変化の現象を、物理的な「力」の概念から完全に切り離して、「エロス的力動」を基礎概念として出発しなければならない。「価値」(またその相関者としての「意味」)の概念は、ただ「エロス的力動」の概念からのみ導かれ、展開される。
(3)世界分節
*一切の認識の源泉としての「世界分節」の概念は、二―チェの「力」の概念の欲望論的転移である。もういちど引用しよう。
《あらゆる力の中心は残余のもの全部に対しておのれの遠近法を、言いかえれば、おのれのまったく特定の価値評価、おのれの作用の仕方、おのれの抵抗の仕方をもってい る。それゆえ「仮象の世界」は、一つの中心から発するところの、世界へとはたらきかける或る特殊な作用の仕方に還元される》(ニーチェ『権力への意志』下、原佑訳P101)。
ニーチェのいう「力の中心」、「世界へとはたらきかける或る特殊な作用」とは、すなわち、「内的体験」の世界で生起するエロス的力動、あるいはむしろ、生き物の「欲望−身体」という中心である。それは観点的な遠近法の中心ではなく、世界それ自身を分節し生成する力動の中心にほかならない。 このとき重要なのは、ここで、「世界」と「力」(あるいは欲望)という両項の関係の本質を正しく理解することである。
*一つの思考実験としてアルコアシドという生き物を仮想しよう。その欲望—身体は、アルカリ成分を生存の糧とし酸性を害とする。アルコアシドにとって、環境世界は「アルカリ性-中性-酸性」という三領域に分節されるだろう。あるいは、アルコアシドの「内的実存」の世界は、この分節された三領域それ自体であるといってもよい。 このとき、この三領域を区分する「力」の原理は何か。アルコアシドの「身体」が対象との接触においてそのつど発動するエロス的情動(快—苦)が生み出す区分である。そしてその区分は、単なる領域区分ではなく、本質的に、この領域がアルコアシドに対してもつ、「価値」の区分なのである。こうして、「欲望−身体」としての「力の中心」が、世界を価値的世界として分節し、生成する。 すべての生主体が存在本質として備えるこのエロス的力動を、われわれは「欲望」と総称する。世界は根源的に、「欲望」という中心から価値的に分節、生成される。生主体における世界の始元の価値分節、始元のエロス的力動の分節を、われわれは「快−不快」の審級として示すことができる。
*すでに見たように、ニーチェの力相関性の構図は、存在論的に、生主体における「生成」の世界を、客体化された「存在」の世界に先行させる。同じく、フッサール現象学の構図も、認識論的に、主観の「世界確信」の世界を、「客観世界」に先行させる。 われわれは、ここで、彼らと思想的直観を共有するもう一つの世界観念を示そう。ウィトゲンシュタインは『哲学的探究』の中で、世界の存在についてつぎのような興味深い寓喩を置いている。 《そこで、人は皆或る箱を持っている、としよう。その中には、我々が「かぶと虫」と 呼ぶ或るものが入っているのである。しかし誰も他人のその箱の中を覗く事は出来な い。そして、皆、自分自身のかぶと虫を見る事によってのみ、かぶと虫の何たるかを知るのだ、と言うのである。――ここに於いて、人は皆夫々の箱の中に異なった物を持っている、という事も可能であろう。否、それどころか、箱の中の物は絶え間なく〔不規則に〕変化している、という事すら想像可能であろう》(黒崎宏訳、P199)。
個々の主体は自分だけの「内的体験」の世界を生き、それらはみな異なっている。しかもそれはたえず変化する「生成」の世界である。だが人間は、言語ゲームによって「内的実存」の世界を互いに交換する。その結果、誰もが、自分が他人と「同じ一つの世界」を生きているという暗黙の確信を形成するのである。 ウィトゲンシュタインの「かぶと虫」の寓喩は、ニーチェの「生成」の先行性、またフッサールの世界の間主観的確信構成の構図と、本質的に重なり合っている。存在論的にも認識論的にも、「内的実存」の世界こそが客観世界に先行する。この構図において、ニーチェ、フッサール、ウィトゲンシュタインの世界説明は本質的な一致を見る。 ヨーロッパ哲学において、人間の内的世界と客観世界の関係についてこうした本質的理解に達していたのは、この三人の哲学者以外には見出せない。
*われわれは、「存在」の世界に対する「生成」の世界の先行性の構図を、「価値の哲学」の基礎づけのために「欲望相関性」として定式化した。しかし、繰り返し言えば、この構図から「世界」は存在しないという結論を導くことはできない。 世界についての欲望相関性の構図が示すのは、第一に「本体」としての世界についての絶対的な認識がありえないこと(それは認識対象としての資格をもたない)。第二に、しかし自然世界の現実存在は、人間にとって「不可疑」であるということだ。そして、この世界の現実存在の「不可疑性」は、以下に示す対象と世界の存在確信の本質的な必然性に根拠をもち、どんな相対主義的帰謬論によっても反駁(はんばく)しえない。
本体論の解体と認識論の解明の意義は、このことでいっそう明らかになる。われわれにとって「自然世界」の現実存在は、論理的な反証は可能だが、しかし「不可疑」である。人間や社会という探求の領域は、そもそも『本体性』をもたない。それは、認識論的にも存在論的にも、集合的な関係幻想の領域、それぞれの「内的実存」の世界の関係が創り出す間主観的な共通確信の世界だからである。 われわれはさしあたってこう結論づけることができる。自然世界(事実領域)における客観認識を可能にする方法原理は「自然の数学化」である。これに対して、「関係世界」 (本質領域)における普遍認識の唯一の方法原理は、欲望相関性の概念と、価値的領域についての「本質洞察」の方法である。この新しい方法によって、はじめて、「人間的世界」 における共通確信の成立の本質構造を把握する可能性が現われる。
「価値の哲学」〜「人文領域の普遍認識」を解明するための手がかり〜
価値の哲学の権利的始発点の根本テーゼは「世界は欲望の相関者としてのみ分節される」。
欲望相関性の概念は、「内的体験」「エロス的力動」「世界分節」の三契機によって構成されている。
《私は、即自的な〔無自覚な〕実存から対自的な〔意識的な〕実存への進展を、複雑さや人間性に結びつけられずにいる。それどころか私は、微生物以下の無機的な粒子にさえ対自的な実存があるとみなしているほどだ。この対自的な実存を私は、内部の体験、内的体験 と呼びたい》(バタイユ『エロティシズム』酒井健訳' P165)
プラトンは恋人の美が人を引きつける力を「エロース」と呼んだが、われわれはこれを受けて、「内的体験」の世界に生じる心的変化の動因を「エロス的力動」の語で示す。
「外的世界」に働く物理力と「内的体験」(実存)の世界で働くエロス的力動の区別は、意味と価値の哲学における絶対的前提である。
外的世界/ 物理世界 |
内的体験/ 心的・実存世界 |
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動因 | 物理力 | エロス的力動 |
生成変化 | 因果連関のデジタル表記可能 | 留保、躊躇、判断、決断といった自由の契機を本質的にもち 「物理世界」因果連関的記述のような認識は不可能。 |
あらゆる力の中心は残余のもの全部に対しておのれの遠近法を、言いかえれば、おのれのまったく特定の価値評価、おのれの作用の仕方、おのれの抵抗の仕方をもってい る。それゆえ「仮象の世界」は、一つの中心から発するところの、世界へとはたらきかける或る特殊な作用の仕方に還元される》(ニーチェ『権力への意志』下、原佑訳P101)。
ニーチェのいう「力の中心」、「世界へとはたらきかける或る特殊な作用」とは、すなわち、「内的体験」の世界で生起するエロス的力動、あるいはむしろ、生き物の「欲望−身体」という中心である。それは観点的な遠近法の中心ではなく、世界それ自身を分節し生成する力動の中心にほかならない。
世界についての欲望相関性の構図
宿題
本文中に「空気の複雑な振動とそれがもたらす感動は、存在審級が異なる」とあるが、「存在審級が異なる」とはどういうことか、現代の電脳論者を批判する形で説明せよ。 (300字~350字)
回答のお手本 1
「実在一元論者」と並列されていることを踏まえ、「現代の電脳論者」を「この世界はすべて数値に置き換え可能な単一の実体で構成されている」という哲学的立場を持つ人々と位置づける。電脳論者は、音楽がもたらす感動の生成を「空気の複雑な振動の程度」に応じて「ある一定の感情」がその振動を体感する人にわき起こると説明するが、これは間違っている。なぜなら、その音楽を耳にする人のこれまでの体験がどのようなものであったか、またその音楽を耳にする人がどの程度の空気の振動を快と捉えるか、といった個々に固有の認識が、その音楽を耳にする人の「音楽」の捉え方を決定づけるからである。存在審級が異なるというのは、外的な「空気の振動」と心(内)的「感動」には、数値で置き換えることができるような対応関係はないということである。(348文字)
回答のお手本 2
電脳論者は「心」と「物」のあいだの相関性が記述でき、この身心の厳密な相関図式は、技術の発達によって、「物→心」の相関構図へと変換可能であると考える。 しかし、空気の振動である音楽は「事物世界」の物理現象であるのに対し、人が感動するという現象は「心的世界」で起きる関係幻想である。 音楽を聴いて多くの人が感動すると言うことは、音楽を作る人・演奏する人・聴く人・関わる人々の心的世界が関係し合いながら、強い共感が生まれた結果、人の心を動かすのであって、特定の空気振動の作用によって、心が動いているわけではない。 絶えず変化し続けながら「意味と価値」が生成される「心的世界」は、「物理世界」の事象と同じ方法での認識や還元は不可能である。以上のことから、空気振動と感動では「存在審級が異なる」ことが説明できる。 (345文字)
参加者の回答
「存在審級が異なる」とは、事物世界と心的世界が本質的に異なる世界層で存在していることを意味している。事物世界では一義的な因果連関として生成変化が起こり、一方で心的世界では自由の契機として絶えず生成変化が生まれる。これらを「同一のもの」として認識・表現することは原理的に不可能であり、心理 - 物理の間の厳密な相関図を記述できるとする電脳論者の主張は実証不可能な推論に過ぎない。同様の関係は脳と意識、コンピューターのハードウェアとソフトウェアの間にも見られる。どちらも一方をいくら詳細に調べたとしても他方の事象は解明できない。このことからも各々が根本的に異なる次元の現象であり、相互に還元不可能であることが理解できる。 (305文字)
現代の電脳論者や実在一元論者は、一切の「心的体験」は、完全に物理的な連鎖として説明されうる、という心理-物理還元論を主張する。だが、この主張は、哲学的には、どこまでも実証しえない単なる希望的空想にすぎない。ゴルギアスにならえぼ、「心的なもの」である空気の複雑な振動がもたらす感動と「事物」である空気の複雑な振動とはその存在の本質を異にするため、両者はその存在審級が異なる。このことが意味するのは、右の論者たちの「論証」がよく表現しているように、両者の関係は、物語の方法によってその「類似性」を示すことしかできない、ということだ。つまり「心的世界」の生成変化と 「事物世界」のそれを、同じ認識方法、同じ言語のルールによって「同一のもの」として 表現することは、原理的に不可能である。(342)
現代科学の技術は、交響曲の複雑な響きを正確にデジタル記号に変換し、さらにこのデジタル記号を音楽の響きとして再現することができ、人に与える感動を再現できると電脳論者は主張する。これは、一切の「心的体験」は、完全に物理的な連鎖として説明されうるという心理-物理還元論の立場である。しかし、この主張は、どこまでも実証しえない単なる希望的空想にすぎない。なぜなら、「心的世界」の生成変化と「事物世界」のそれを、同じ認識方法、同じ言語ルールによって表現しているからだ。ゴルギアスにならえば、「心的なもの」と「事物」とはその存在の本質を異にするため、一元論的に捉えるのは原理的に不可能なのである。つまり、電脳論者は存在審級(「心的世界」と「事物世界」の生成変化)が異なることを無視した暴論を主張しているにすぎない。 (317文字)
価値とは内的実存の世界において、言語ゲームで互いに世界を交換し、共通了解を得ていくことである。我々が存在を認識するものには、外的世界で働く物理的な力によって存在するものと内的体験の世界で働くエロス的な力動の区別がなされており、意味と価値の哲学における絶対的前提となる。つまり事物世界と心的世界は存在本質を完全に異にするため、心的世界の普遍洞察は事物世界の方法と異なる認識を必要とする。まさに外的な力によって奏でられる物理的な音と内的な心的世界で奏でられる音では、価値の判断基準が同一であるわけがない。
現代の電脳論者は、一切の「心的体験」は、完全に物理的な連鎖として説明され得るという心理‐物理還元論を主張するが、これは、哲学的にはどこまでも実証し得ない単なる希望的空想に過ぎない。 なぜなら、物理世界の生成変化は、ただ一義的な因果連関のデジタル表記としてのみ把握され得るが、しかし、心的世界の生成変化は、むしろ生成変化の連関における、留保、躊躇、判断、決断といった契機を本質的に持つ。この契機を端的に「自由」の契機と呼ぶが、これは、物質世界の生成変化の把握における因果連関的記述とは、根本的に相容れない。 このように、「心的なもの(体験)」つまり「感動」と、「事物の因果連関的記述」つまり「空気の複雑な振動」とは、その存在容態を根本的に異にする、ということ。
※参考資料
「仮象の世界」について
🔵仮象の世界とは、言いかえれば、価値にしたがってながめられた或る世界のことである。
価値にしたがって、すなわちこの場合には、或る特定種の動物の保存や権力上昇に関する有用性の観点に従って、秩序づけられ選択された或る世界のことである。
それゆえ、遠近法的観点が仮象性という性格をあたえるのである!
遠近法的観点が除去されても、なおも或る世界が残存するかのごとくであるとは!
このことでもってまさしく相対性が残余のもの全部に対しておのれの遠近法をいいかえればおのれの作用の仕方、おのれの抵抗の仕方をもっている。それ故、「仮象の世界」は、一つの中心から発するところの世界へと、はたらきかける或る特殊な作用の仕方に還元される。
参考:ニーチェ全集 第十二巻 権力への意志(下) p.87