講師:居細工 豊
第五章 幻想的身体論
1.心身論のアポリア
*ヨーロッパ哲学における認識問題は「本体」観念の解体なしには解決されえないが、現代哲学はニーチェとフッサールの達成をまだ理解していない。そのためヨーロッパ哲学は、認識論上の「難問」を未決のまま抱え込んでいる。主観-客観の一致問題、言語と意味の一致問題、時間のパラドクスもその派生態だが、もう一つの重要な難問が「身心問題」である。
*自然科学の大きな進歩は、哲学者たちに人文領域における普遍認識の可能性を期待させ、ルネ・デカルト、バールーフ・デ・スピノザ、ゴットフリート・ラィプニッツなどによる「普遍学」(普遍数学)の構想を生み出した。
しかし、この構想も、人文領域における 普遍認識の原理を作り出すことはできなかった。
以後、心と身体(物質)の秩序を一元的に認識できるかという「身心問題」は、近代哲学における重要な難問として残りつづけた。身心問題が象徴的なのは、「身体」が、物質の秩序と心の秩序の境界線上に位置する独自の対象領域だからである。
コントの実証主義の理念を引き継いで登揚した近代心理学は、「心的なもの」を実証主義的方法によって客観的に認識しうるという前提のもとに、ヴィルヘルム・ヴントの実験心理学以来アメリカに主流を移し、ウィリアム・ジェームズ、エドワード・ティチェナーなどをへてジョン・ワトソンの「行動主義」にゆきつく。さらにこの発想は、「心的なもの」を実体的-物理的存在へ還元可能とみなすサイバネティクス、AIの分野での科学的心身一元論(ダニエル・デネット、ポール・チャーチランドなど)へと続く。
だが、ここでも、心的な秩序と物質の秩序の接合あるいは「一致」の可能性は、ゴルギアス・テーゼの壁にぶつかるのである。ゴルギアスにならえば、心と物は、その存在審級を異にするゆえに、相互に還元不可能である。
*われわれは、身心問題について最も優れた洞察を示した二人の哲学者、アンリ・ベルクソンとモーリス・メルローポンティの身体論を確認することからはじめよう。
ベルクソンは、『物質と記憶』において独自の「イマ—ジュ一元論」を提示する。
《さてどんな哲学的学説も、同じイマージュが同時に二つの異なった体系に入りこみうることに異議を挿むものはない。一つの体系は科学に属し、そこでは各々のイマージュが それ自身にのみ関係づけられて、絶対価値を保持している。いまひとつの体系は意識の世界であり、ここではすべてのイマージュが中心にある一つのイマ—ジュ、すなわち私たちの身体に従って規定され、そのさまざまな変化を追う。そこで、実在論と観念論の間に提起される問題は、いまやすこぶる明らかになる。(中略)主観的観念論が第一の体系を第二の体系から導き出そうとするものであること、唯物論的実在論が第二のそれを第一のそれから導き出そうとするものであることは、見やすい道理である》(田島節夫訳、P29)。
一切をイマージュに還元するベルクソンの心身論の構想は、フッサールが一切を「純粋意識」に還元したのとかなり近い。フッサールの中心動機が認識論の解明にあったのに対して、ベルクソンの動機は、観念論と実在論という二元論の対立の"一元論化による克服"、という点にあった。
世界の一切が世界表象(イマージュ)としての「意識」に還元されるのだが、ここに外部世界と内的世界のイマージュがたえず現出する。
つまり意識における「イマージュ」は、心と物という二領域のつなぎ目(インターフェイス)であり、それが「知覚-身体」だとされる。
それゆえ、実在論者は内的イマージュのすベてを外的イマージュの系列へと還元して説明するのであり、観念論者はその逆のことを行なつている、とベルクソンはいう。
さらにいう。観点の方向性の違いはあるが、実在論も観念論も「知覚」をその絶対的出発点としている点では同じである。経験される世界の総体を「イマージュ」とみなせば、外的世界(宇宙)の全イマージュと主体の内的世界の全イマージュは、「知覚」という独自のイマージュをその接合点としてもつことになり、実在論か観念論かという対立的問いは解消される。
さてしかし、問題は、「知覚」が外的世界と内的身体の全イマージュの源泉であることを可能にしているものは何かということだ。ここにベルクソンの心身哲学の核心の問いがあるが、その答えとして示されるのが「記憶」である(この考えは現代哲学のドゥルーズの時間論に大きなヒントを与えている)。
*べレクソンの「知覚」は、それ自体としては刺激と反応の事物的な因果系列と想定されている。だが、このプロセスに「記憶」の原理が働くと、事物的因果の連鎖は不確定なものとなり、ある種の選択の余地が生じる。
つまり、一義的事物的因果性のうちに「選択-判断」の要素が生じ、そのことで生き物の「知覚」は「意識」の原理を帯びる。
こうして高等な生き物の「知覚」は、外的経路と内的経路の単なる接続点ではなく、意識し、注意し、判断し、選択するという独自の機能をもつ。
すなわち、生き物においては 「記憶に浸されない知覚というものはない」。あるいはむしろ「知覚」とは、すでに「記憶」という契機を内在するところの物質である、とされる。こうして、生き物の身体とは 「記憶を内在した物質」と規定される。
*心身二元論についてのべルクソンの洞察には優れた本質洞察が含まれており、その点で スピノザ的一元(一切は神から流出する)や、現代の物理主義的一元論(心の働きは脳の働きに等しい)よりもはるかに優れている。とはいえ、そのアイデアの核心は、「精神」(心)と 「物質」という伝統的な二元論の対立を、「物質-記憶」としての「知覚―身体」という概念による一元論化によって克服(あるいは解消)する点にある。
この試みは、しかし、第一に、心身論がそこから現われている認識問題の難問を解明するわけではない。
ここでの「知覚―身体」はそのまま「本体」観念を残しているからだ。 第二に、心的なものの原理は「記憶」の概念で言いかえられているにすぎず、心的なものにとってなにより本質的である価値論へと展開する道は開かれてはいない。
*精神と物質の二元論対立の一元論化によって克服しようとする試みは、じつは、二〇世紀前後の哲学者にきわめて多くみられる。アルトゥル・ショーペンハゥアウアー、エルンスト・マッハ、ウィリアム・ジェームズ、また西田幾多郎の「純粋経験」もこれに属する。 二元論の一元論的克服というアイデアが哲学者を引きつけるのはそれがうまくいけば、心的な秩序と事物の秩序を統一的な原則で記述できる、すなわちその交換式を成立させる可能性をひらくからだ。しかし、これは原理的に不可能である。繰り返せば、「心的なもの」と「物質的なもの」はその存在審級(本質)を異にする。「心がある」と「物がある」とでは「ある」の本質が異なるため、これを統合する原理は存在しないのである。

