東大阪の学び場|マナビー

第7回「新・哲学入門」
竹田 青嗣 著(講談社現代新書)

講師:居細工 豊

キーワード

「自己ロマン」 「自己理想」
「ロマン的世界」

第八章・第4節 ロマン的世界と自己理想


*「よい子であろうと欲すること」。これは、ローレンス・コールバーグのいう「懲罰を避けよう」とするはじめの動機から出発(『道徳性の発達と道徳教育』)、親の愛情と承認の獲得を求める「自己配慮」へと進み、やがて「自己価値」の欲望に押されて思春期「自己意識の自由」の基礎的な核となる。
「よい子」たろうとする自発的な欲望、すなわち内面化された自己価値欲望の形成の可能性は、人間の「自己意識」にとって一つの重大な岐路をなす。

註:ギュゲスは、プラトン『国家』に登場する羊飼いで、自分の姿を消すことのできる不思議な指輪によって、誰からも批判されずに悪をなす自由の力を得る人物。人間の「自己中心性」の自由を象徴する人物として描かれている。

*クセノフォンは『ソークラテースの思い出』で、年若き英雄へラクレスの前に、二人の婦人、「美徳」と「悪徳(幸福)」とを登揚させる。両者はそれぞれの道の利点を挙げ、いかなる人間となるべきかの決断をへラクレスに促すが、最後に「美徳」に軍配が上がる。「美徳」はいう。

《肉慾は必要を感ずる前に強いてこれを起しあらゆる工夫をはかり男を女の代りに用いる。かようにお前は自分の友達を教育し、放埓(ほうらつ)の夜を暮し、昼の貴重な時間を寝てすごす。不死の身でありながら神々からは見離され、善き人間からは馬鹿にされる。(中略)この群は若くして身体無力であり、老いては精神が空虚である。呑気に贅沢に育てられて青年期をすごし、難渋し落ちぶれて老後を歩む。昔した事は恥を遺(のこ)し、今する事には難儀を嘗(な)め、青年時代は快楽を追い、窮乏を老後に積む。しかし私は神々とともに暮し、良き人々とともに暮す。(中略)神々のところでも人間のところでも、私を尊ぶにふさわしいところでは私はあらゆるものにまさって尊ばれる》(『ソークラテースの思い出』佐々木理訳、P75)。

承認をめぐる家政のゲームの途上で、人は、「よい子」価値を受け入れ、これを内面化するか、あるいは感受的エロスに固執するかという選択の場面に、幾度も出会う。「よい子」承認の価値が、早期の母—子関係のうちですでに挫折し断念されているのでないかぎり、「善き人間」の価値承認と、それを獲得するための損失と困難とがつねに天秤にかけられる。つまり、「善き人間」の道か「享受=幸福」の道かの分かれ道は、この経験の反復の中で時間をかけて形成されてゆく。

象徴的にいえば、人は、関係的な承認と評価を求める「美徳」の道と、感覚的享受と自己優越のエロスを求める「幸福」の道との大きな岐路に、人生のうちで二度出会う。 まず、家政的承認ゲームの時期、フロイトでは男根期と呼ばれる三歳から六歳ころの時期。つぎに、思春期—青年期における「自己意識」の時期。人間の主権的な自己配慮と自己決定という点で、後者がはるかに重要な意味をもつ。

*人間の「自己欲望」(自己価値欲望)を、他者によって審判されるベき「自我中心性」とみなす他者の形而上学は、任意の理想理念にもとづく独断論にすぎない。人間の内的倫理 の重要な岐路は、自己の幸福と享受の自由を貫こうとする自己中心性と、他者の非難と審判を受け容れ、自己中心性を断念して「善き人間」たろうとする道徳的心意との端的な対立としては現われない。 へラクレスの前に示された「美徳」の道は、他者との愛と承認による「関係のエロス」を求める道であり、「幸福=享受」(悪徳)の道は、所有し、独占し、優位に立ち、支配する力能によって「自己価値」を得る「自我のエロス」の道である。

生育の途上、人は無数の場面でこの微妙な選択の岐路に立ち、そのつど暗々裡の決断を遂行する。ここで「善き人間」たろうとする選択が障碍と挫折の可能性を凌駕して優位に立つなら、内的な「自己ロマン」形成のための望ましい条件が与えられる。

*思春期の前後は、自己意識におけるロマン的形成の時期と名づけられてよい。玩具や人形遊び、絵本、物語、楽しい音楽などが親の親和的な愛情とともに与えられることが、やがて現われる世界に対するロマン的憧憬の感情の基礎となる。

玩具、人形遊び、絵本の世界に没頭することは、母との分離の一過程でもあるが、それが慈愛をもって許容されることは、子が母との親密圏から離陸して自己の内的世界を創り上げることへの大きな促しとなる。モーリス・メーテルリンクの『青い鳥』は、子にとっての、未知の世界に対する好奇心と憧憬に充ちた希望的夢想を鮮やかに象徴している。

*ヨハン・ホイジンガによれば、「遊び」の世界は、功利的な機能を持つ以前に、まず現実的な有用性の世界からの解放の欲求から現われる(『ホモ・ルーデンス』)。つまり「遊び」は、それ自体、現実の諸規範からの一時的解放を意味する。しかし、ロマン的世界はさらに、日常世界において課せられるさまざまな義務、それにつきまとう不安、緊張、挫折などの恐れから自らを隔離し解放する「自己意識の自由」の王国なのである。

この内的自由の領域としてのロマン的世界は、一般的には、親の愛情に満ちた配慮と庇護のもとで豊かに形成される。不遇で厳しい現実のうちにある子は、自己についての不安から自己防衛と他への攻撃性を高めて、ロマン的世界にエネルギーを費やす余裕をもてない。未知の世界への憧れは阻害されてロマン的世界の形成は困難になる。ただし、親からの愛と承認を十分に得られない場合でも、不遇な自己意識が外部世界への批判や批評の意識を高め、自己の「内的な純粋性」の意識を育てることで、世界に対抗する孤独な内面のロマンを生じることがある。

*自己ロマンは、内的なロマン的世界の結晶化として生じる。それは、親の価値規範の世界からの自力による離陸であり、思春期から青年期にかけての「自己価値」意識、すなわち私の固有性と独自性の意識として形成される。この自己固有性の意識を養い支えるのは、一般に、他者に対する何らかの卓越性、美意識上の、また道徳的、知的な優越の感度である。 三つの代表的な自己ロマンの範型がある。「正しさと純粋性のロマン」「卓越性のロマン」「美的ロマン」この岐路については大きな謎はない。自己ロマンは、恋愛における結晶作用と同様に、自己のなんらかの能力の卓越を証してくれる対象の発見と、そのロマン的結晶化によって人間の自己欲望にとっての大きな糧となる。

*自己のロマン形成と自己ロマンの挫折の可能性は、つねに表裏一体である。他との比較—優越の感度を大きな根拠とする自己ロマンは本性上相対的なものであり、より上位の卓越に出会うことによる挫折の可能性をつねに孕(はら)んでいる。だが人間の自己欲望は、この挫折を養分として「道化」のロマンや「悲劇」のロマンを作り上げもする。この事態は、「何も欲しないよりはむしろ虚無を求める」という、ニーチェ的なニヒリズムとシニシズムの形態を思い起こさせる。

*青年期における自己配慮的な「自己欲望」の展開の最後の指標は、「自己理想」である 自己理想にもいくつかの類型があるが、男子に最も典型的なのは、「善と正義」「卓越性」、そして「偉大さ」のそれである。女子も多様な対象をもつが、愛情承認における高位の的となることがその代表であろう。この違いは、家政ゲームにおける男女の承認価値の一般的類型の違いにその根拠をもつ。 プラトンはソクラテスのうちに善のイデアを生きる人間を直観し、アレクサンドロス大王はへラクレスに憧れ、マクシミリアン・ロベスピエールはルソーの『社会契約論』を世界の理想の書として抱いた。挫折することなく「正しさ」や「卓越性」を自己ロマンとして育てることに成功した若者は、そこから生の明瞭な目標としての「自己理想」を育てる   これにつけ加えるなら、現代社会の若者は、多く、社会の競争的な承認ゲーム(サクセスゲーム)における輝かしい成功者たちを、自分がかくあるべき「何者か」のモデルとする。

*次にみられるような「真なるもの」「ほんとうのもの」への情熱は、「自己理想」のいくぶん古典的な典型的事例である。

《Kは昔しから精進という言葉が好でした。私は其言葉の中に、禁慾という意味も籠っているのだろうと解釈していました。然し後で実際に聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚ろきました。道のためには凡てを犠牲にすべきものだと云うのが彼の第一信条なのですから、摂慾や禁欲は無論、たとい慾を離れた恋そのものでも道の妨害になるのです》(夏目漱石『こころ』)。

《シッダールタは、自分の心に不満をつちかい始めていた。父の愛は、母の愛は、そして友人ゴーヴィンダの愛も、不断に永久に彼を幸福にし、心をしずめ、満たし、満足を与えはしないだろうことを、彼は感じ始めていた。(中略)最も奥深いもの、究極のものはどこに、どこにあったか。それは肉でも骨でもなく、思考でも意識でもなかった。最も賢い人たちはそう教えた。では、どこに、どこにあったか。そこへ迫るために、自我へ、我へ、真我へ迫るために、別な道が、求めがいのある別な道があつたか》(ヘルマン・へッセ『シッダールタ』高橋健二訳、P10)

*「ほんとうのもの」への希求は、自己追求の像としてだけでなく、自己と世界との関系の像としてもその対象となる。ヘーゲルのつぎのような見解は示唆的である。 近代の自由な精神は、世界を対立と矛盾に満ちたものと見る精神であり、この対立と矛盾を克眼し、世界に「あらゆる対立と矛盾が解決された状態」(『美学講義』、長谷川宏訳、P104)をもたらしたいと切望する。若者の自由な思考の力は、世界あるいは自己のうちに必然的に対立と矛盾を見出し、これを超え出る可能性を、何か絶対的に普遍的なもの、何か「ほんとうのもの」への希求として熱望する、と。

近代社会の青年の自己理想は、自己欲望の過大なまでの膨張によって、しぼしば、絶対的なもの、超越的なものを欲望の対象として形成する。絶対神という絶対的「超越性」を喪失したヨーロッパ近代は、いくつかの特権的対象を人間の新しい超越的理想として認めた。それを象徴するのは、恋愛、芸術、革命、そして真理の発見(ただし認識上の)である。

*自己ロマンと自己理想は、「善き人間」たろうとする若者の自己欲望の結晶化の典型的二形態である。自己理想は、しばしぼ、内的な理想像と現実との大きな落差と矛盾の意識(不幸の意識)を生み出す。それゆえ、自己理想の欲望が過大となって到達の可能性を超え出るとき、挫折や内的な反動形成を引き起こす危険をつねにともなっている。すなわち、シニシズム、イロニー、デカダン、あるいはまた反世俗的、反世界的ロマン主義、文学的反俗主義など。これらは青年期のロマンと理想の挫折の典型的類型である。

第7回 講師:居細工 豊
第7回 マナビー

宿題

設問

●本文の「自己ロマンは、恋愛における結晶作用と同様に、自己の何らかの能力の卓越を証してくれる対象の発見と、そのロマン的結晶化によって、人間の自己欲望にとっての大きな糧となる。」について●『恋愛における結晶作用』とはどういうことかを説明した上で、『自己理想』と対比させつつ『自己ロマン』を150字以内で説明せよ。

回答のお手本

回答 1

家政のゲームの途上「よい子」価値を内面化できた子は、青年期に「自己価値」意識を支える自己欲望を育てる。その一形態である「自己ロマン」とは、恋愛の初期に相手を美化する「恋愛の結晶作用」の様に、他との優越を根拠とした未知への憧れである。それは後に、生への明瞭な目標としての「自己理想」へと発展する。147

回答 2

恋愛における結晶作用とは恋愛対象の真の姿を見ずに美点で飾ることにより魅力的に感じてしまう作用である。 「自己ロマン」は恋愛の結晶作用と同様に、なんらかの卓越性や優越の感度を見出し、その対象を美化することで、「自己価値」意識として形成され、これが成功すると生の明瞭な目標としての「自己理想」を育てる。148

参加者の回答

回答 3

恋愛対象を美化する心理は、塩坑の枝に美しい結晶が生じる現象に見立て結晶作用と呼ばれる。 思春期に抱く「自分は他者より優れている」という自負にも同様の作用が働き、自身を価値ある人間だとする期待が生まれる。 自己ロマンとはこの自分の潜在価値への希望であり、未だ明瞭な目標足り得ない欲望の一過程だと説明できる。150

回答 4

言幼児期に母の承認を得ることで芽生えた自己ロマンは、思春期から青年期にかけて自己の何らかの価値を認めてくれる他者、すなわち恋人の存在により更に高まる。自己ロマンは社会で有用な存在であろうとする自己欲望を支え、真なるもの、すなわち自己理想の追求につながるが、理想と現実の落差による挫折の危険性も伴う。148字

回答 5

学生時代の友人の好きなタイプの女性は「髪の長い女性」であった。しかし数年後、その友人の結婚式に行くと全く違うタイプの女性が友人の前に居た。まさに恋愛の結晶作用が働いたと感じた。そのうえで、「自己理想」とは自己追求の像であり、「自己ロマン」は関係的な承認の中で生まれるものであると私は説明する。(146字)

回答 6

自己ロマンは、内的なロマン的世界の結晶化として生じ、他との比較—優越の感度を大きな根拠とするため、本性上相対的なものであり、より上位の卓越に出会い挫折の可能性がつねにある。しかし、挫折せず「正しさ」や「卓越性」を自己ロマンとして育てることに成功した若者は、そこから生の明瞭な目標としての「自己理想」を育てることができる。 (145)

回答 7

自己ロマンとは、内的なロマン的世界(自己価値があるという希望的夢想世界)の結晶化(対象を美化する恋愛における結晶化作用のように、自己を証してくれる対象の美化作用)として生じるもの(自己価値の実感)だ。 それに対し自己理想とは、自己ロマンが前提で、比較対象が他者ではなく、理想の自己という点に違いがある。150字

回答 8

恋の結晶作用とは、人が、恋をすると、その人の持つ属性がすべて美点に見えるようになるということである。 思春期に、人間の欲望の対象(「ありうる」) 中心性は明確に自己自身へと向けられ、「自己欲望」を形づくる。それは、自分だけの「内的世界」を憧憬によって飾る「自己ロマン」の形成(結晶作用)をうながす。(148字)