講師:居細工 豊
第七章 価値審級の発生
3.初期禁止
④「初期禁止」と「よい-わるい」
*母-子の要求-応答の基礎関係は、はじめ、つねに「子」が要求し「母」がこれに応答する完全に一方向的な関係として進む。やがてこの基礎的関係は、「笑う」、「あやす」、「せがむ」を介した相互的な要求—応答関係へと進み、母-子の間の共感的な「関係感情」の領域を生み出した。 だが、母-子の基礎的な要求-応答関係が大きく逆転する時点が訪れる。それが母から子に与えられる「禁止」の開始(初期禁止)にほかならない。 子の身体能力の高まりに応じて、母は、危険な食べ物、触れてはいけないものなどについての「禁止」を与える。はじめは、子が「禁止」を理解することは期待されておらず、まだ行動の抑止の実行にすぎない。しかし、子の生育にしたがって、「禁止」は、理解されるべきものとして母の明確な意志とともに与えられる。つまり、「禁止」の段階は、要求-応答関係の明確な逆転をもたらすのである。
*初期禁止の登場によって、子から母への要求-応答関係は逆転し、ここで要求の権能は明確に母へと移る。この要求-応答関係の逆転の底にあるのは、子が母との内密な親和性の世界から分離を果たすべきという要請、つまり、子が人間の文化的生活様式へ参入することの必要であり、それゆえ、「禁止」はやがて、さまざまな関係的ルール(規範)の交付へと進む。 こうして、母-子の関係は、第四の段階、母からの諸規範の要求に子が応答する「規範-ルール」の受容の段階へと移る。子に属していた感受的エロスの全能的要求は終焉し、以後、むしろ母が、明確な意志主体として、さまざまな規範-ルールの順守を要求する存在となる。
*ここで重要なのは、母の要求に対する子の応答である。子は、母の規範—ルールの要求をすべて順守することはなく、自己の感受的エロスを守るためにこれに抗う(あらが)が、しかし徐々に母親の要求を受け入れてゆく道を進む。 子の応答は、そのつど、順守あるいは抵抗のいずれかとして現われるが、この応答はさらに、それに対する母の再応答によって応えられる。母の禁止-要求が順守の態度で応えられると、子は母から親和的、歓待的反応を受けとり、不従順や抵抗の態度による応答は不機嫌や冷淡の感情によって再応答される。 母の要求に対する子の順守と抵抗の態度は、以後の両者の関係感情の世界の形成に決定的な影響を与える。この過程において、子は、大なり小なり感受的エロスの全能を断念して母の要求を受け入れていく。その過程がうまく進めば両者の「関係感情」の世界に新しい親和、歓待、慈愛の関係が育てられるが、軋轢(あつれき)が大きければ逆の事態を引き起こす。 フロイトは、神経症の中心的原因をエディプス関係の不調という仮説に求めたが、むしろそれは、母—子の(つぎに親-子の)基礎的「関係感情」の本質的な不調に求められねばならない。
*子が、母なる対象を、意志をもつ自立的な存在として、すなわち「他我」として了解してゆくのは、規範-ルールの順守と抵抗をめぐるせめぎあいの過程においてである。 人間の「自我」が、多形倒錯的状況(寸断された身体)から鏡像段階(他者の視線から見られた自己像)に至って統合されるというラカンの説は、「自我」が、他我との対他的な関係意識として成立するという点で一つの理をもっている。しかしここでも、人間の「自我」 は、他者の視線による疎外や欺瞞による形成物であるという不必要なコノテーションがつきまとっている。 人間の「自我」は、一般的には、意識の自己対象化の能力の所産だが、子の「自我」形成は、母との関係的な意識の進展のプロセスにおける生成と考えねばならない。 子は母の禁止—規範要求に対する確執的応答のうちで、すなわち、どこまで母の要求を受け入れ、どこまで自己の感受的エロスに固執するかというせめぎあいの中で、母を、明瞭な意志と身体的力能をもつ「他格」として了解し認知してゆく。この双方向的関係においては、子は自らのエロス的要求を実現するために、かつての一方向的要求の全能に頼ることができず、何らかの仕方で「他格」としての母に働きかけねばならない。 「他格」への「働きかけ」の必要が、複数の選択肢から何が重要視され優先されるかについての判断を要請し、この経験の反復が関係主体的意志としての「自我」を形戎してゆく「自我」は、自己が他者にとっていかなる存在としてあるべきかについての自己配慮として形成されるのである。
*動物の主体は「自我」ではなく「意識」であり、その本質は、フロイトが示唆したように、快感原則(身体的エロス)に奉仕してその実現をはかる現実原則、という点にある。人間の「自我」もエロスの要求と現実の調整という点では同じだが、ここで「自我」は、快感原則に規定され、一方的にその支配に服する奉仕者ではない。 人間の自我は、まず他者との関係のうちで、自分の欲望を対象化し、その価値を評価し、その上で他者関係に主体的に働きかけて欲望を実現する「主権的主体」である。つぎに、他者関係のうちでたえず「関係感情」の世界を形成し、そのことで喜び、悲しみ、嫉妬、憎悪、愛着といった対他的感情世界を生きる「心的存在」となる。さらに、自分の欲望と充足の結果を自己の生の全体のうちで評価し、そのことで「生の目的」を形成しつつ生きる実存的な生主体である。 こうした実存の主体としての人間的「自我」は、規範-ルールの要求-応答をめぐる母-子の初期的関係世界にその発生の苗床をもつ。 人間の身体的な「快-苦」のエロスは、初期の要求-応答関係によって「関係感情」のエロスへ転移し、さらに初期禁止と規範要求のせめぎあいの経験をとおして、はじめて関係的な「よい-わるい」の価値審級へと進み出る。 だがこの領域に進む前に、われわれは、ここでの幻想的身体の発生論が、深層心理学説一般の、現象学的-欲望論的な位相変容であることを示唆しておかねばならない。
*フロイトのエディプス複合と去勢複合の理論は、子の性的欲望の「禁止」を、子が人間となりゆく象徴的転回点として示唆する点である意味で正しいが、ある意味で間違っている。 「禁止」が問題であるのは、母への排他的なエロス的愛が禁止されるべきだからではなく、子が、母との閉じられた親密な世界から出て家政的なルール関係の世界に入り込み、さらに人間の文化世界に参入しなければならないという課題をもつからである。 すなわち、問題なのは、対象選択(母、父)でも特定の器官(男根)でもない。閉じられた一方的な要求-応答関係から、相互的な要求-応答の関係を受け入れ、この関係をとおして、関係的な企投の能力を主権的な「自我」として形成してゆくことができるか否かが問題なのである。 人間のエロス的身体の発生論という観点からは、どの深層心理学の学説にも一定の重要な理がある。たとえばメラニー・クラインは、人間欲望の根本的な抑圧と不安の発生期を、フロイトのエディプス複合よりさらにさかのぼって、ほぼ誕生直後の乳児と「乳房」の関係にまで引き戻す。ただここでも、「物語」的仮説がその本質的な洞察をさまたげている。 クラインによると、何らかの理由で授乳の満足を十分にえられない乳児は、「死の不安」や迫害妄想をもち、対象(乳房)に対して激しい怒りと攻撃性を向ける。乳児の心的世界では、全能感、分裂、否認、憎悪、不安、防衛などが錯綜し、妄想—抑うつ的生活のうちを生きるとされる。註1 ひとことで、ここには、初期の母-子関係において、全能的な要求への応答を十全にえられない乳児が不安にみちた内的世界を形成し、焦燥と不快に彩られた「不安身体」の 体制を作り出す機制が寓喩-説話的に描かれている。対象に対する乳児の怒り、憎悪、攻撃性などは、すべて事後的な説明づけというほかないが(怒り、憎悪は、関係感情であり、授乳的初期には形成されない)、「不安」が子の内的関係世界の適切な展開にとって最大の阻害的契機となることは疑いを容れない。註2
*クラインほど荒唐無稽ではないが、ハリー・スタック・サリヴァンもまたクラインの仮説(よい-わるい、乳房-母親仮説)を部分的に踏襲する。彼はいう。子どもの精神発達において母子関係が決定的重要性をもつが、とくにそこでどのように「不安」がため込まれ、また、いかにしてそれが克服されるかが、重要な課題となる。
註1:《尿道サディズムと肛門サディズムの衝動が強まるにつれて、幼児は心の中で、有毒の尿と爆破させてしまう大便で乳房を攻擊する。そのために今度は、乳房が自分に対して有毒で爆破させるものであるととらえられる。幼児の細かなサディスティックな幻想が、内外の迫害者に対する幼児の恐怖の内容を決定する。そして、これらの迫害者とは、おもに報復的な(悪い)乳房なのである》(クライン『妄想的・分裂的世界』小此木啓吾・岩崎徹也編訳、P80) 註2:「不安」はもと単にノイズ(心的不快)である。乳児のノイズのうち肉体的なものではなく関係的な要素を帯びたものをわれわれは「不安」と呼んで分節するのである。
《記憶を思い起こすことができないほど早い人生の時期にすべての人間の中に「あるきわめて不快な体験を耐えてゆく一種の能力」が出現する。この不快な体験こそヒトという動物を、一箇の人間に仕立て上げる訓練のためにすべての文化において利用されているものである。(略)この不快な体験とは何だろうか。それこそ私が「不安」と名づけるものである》(『精神医学は対人関係論である』中井久夫ほか訳、P9)。
サリヴァンは、エディプス複合を子にとっての象徴的な試練とするフロイトの仮説を否定して、つぎのように主張する。 子は母の擁護と配慮なしに自力で生育することはできない。この事情は、子のはじめの養育期における心的生活を大きな初発の不安の時期となし、またその克服を重要な課題とする時期とする。この時期に母との関係に持続的な不調が生じると、それは子のうちに長く続く不安の体制を形成することになる。そしてその重要な契機となるのは、父の威力による「去勢の不安」でほなく、なにより「母」自身の心的な不安(あるいは不安定)であり、そこで生じる「不安転移」の状況であると。 - サリヴァンの指摘をつぎのように言いかえることができる。子は、身体の不快を調整する最低限の「能う」を「泣く」にもっている。しかし母との要求-応答関係の不調は、不快に対処する子の「能う」の効力を大きく奪う。この無力の感覚によって関係感情の世界は不安の色彩を深め、不安は、子の情動世界の常態となる。 人間の心は何らかの不安に襲われると、これに対処する手段を探そうとする。だが、その対処の能力が無効であるという経験が重なると、不安の情動は蓄積され、「身体化」されて、たえざる不安の感覚が人間の幻想的身体の基礎的情動となる。これを私は「不安身体」と名づける。「不安身体」の体制化が、多くの心的障害の中心的原因である。
*われわれはここまで、人間の「身体性」が、養育者(母)と子の関係のうちで幻想的身体としてそのエロス的審級の本質を転移させてゆくプロセスをたどってきた。それが動物の身体の生育のプロセスと本質的に異なるのは、第一に、「関係感情」の領域を生成すること、第二に、初期禁止と規範-ルールの交付によって、子の人間的(文化世界)への参入が促されるという点である。 れわれは深層心理学が描いてきた人間の「無意識」の世界の意味を、か幻想的身体の発生論として描きなおしつつ、初期禁止までやってきた。この場面こそは、子が、「自我」 のうちに、言語ゲームに媒介された「よい—わるい」という価値的規範を組み込むことに よって関係的存在としての人間となる、決定的な転回点にほかならない。
宿題
文中に「関係主体的意志としての『自我』を形成してゆく」とありますが、人間の自我が動物の主体と異なる点について、資料内の「主権的主体」と「価値」を使って説明しなさい。
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