東大阪の学び場|マナビー

第22回「新・哲学入門」
竹田 青嗣 著(講談社現代新書)

講師:居細工 豊

キーワード
「価値審級の発生」

第七章 価値審級の発生


2.価値審級の発生論

*われわれは価値審級の問いを、ニーチェの力相関性とフッサールの「自我発生論」の概念を手がかりに始発しよう。 フッサールでは、人間の「一瞥的知覚」の能力は、「自我」の世界感受の力能の発生的な過程の所産である。だがこの過程は、純粋意識の直接的な内省によっては把握されないために、現象学的発生論を必要とする。フッサールによる「自我」の「本質発生論」は、欲望論的に変様すれば、「幻想的身体」の発生論、すなわち人間身体の価値感受の力能(「能う」)の発生論として再設定される。 この発生論の意義は、母-子関係の生育過程を欠いた野生児ヴィクトールのケースを想起すれば明らかだろう。あるいはまたフロイト思想がよく示唆するように、人間身体のセクシュアリティと感受性の体制は、その成育における関係的なプロセスのうちで形成されるのである。 しかし、ここでは人間の乳幼児期が探求の領域となるため、直接的な本質洞察の方法はとれない。そのため幻想的身体の発生論は、育児経験における観察を補助線として、人間の価値感受の形成の構造についての想像変様された本質洞察の方法をとる。 これを「本体」を想定する実証主義的な発達論や形而上学的起源論と混同してはならない。ここでの本質洞察から導かれる仮説的原理はわれわれの経験意識から検証可能であり、またそのことでより普遍的な原理へと置き換えうるものである。

*われわれはすでに、価値—意味の本質学によって以下のような前提的仮説を描いておいた。 生き物のエロス性は、まず「快-不快」そして「エロス的予期-不安」へという身体的エロスの審級の転移として進んだ。人間のエロスと価値の審級が身体的エロスの地平から離陸するのは、人間が言語ゲームによる関係世界のうちを生きることによってである。これを契機として、動物的な「快-不快」「予期-不安」の審級は、人間の幻想的身体における価値審級へと転移する。 まずその大きな輪郭を素描し、その後に、それぞれの価値審級の転移のプロセスについての洞察を置こう。

*誕生直後の乳児は動物の存在とほとんど区別できない。もし母-子関係がなければ、子はほぼ動物的生の状態のままに育つことは、ヴィクトールの例がよく示している。人間の生が動物のそれと異なる最大の契機は、母-子(養育者-子)関係を一定の成育期としてもつこと、またそれが言語ゲームとして営まれるという点にある。このプロセスによって人間の身体は動物的身体から離脱し、関係的身体、つまり幻想的身体となる。 幻想的身体では、その価値審級は「快-不快」「予期-不安」から「よい-わるい」「きれい-きたない」へ、さらに間主観的な「善悪」「美醜」へと転移する。人間の知覚(あるいは自我)が価値的な一瞥的知覚の本質を獲得するのはそのためである。 象徴的にいえば、人間の身体(幻想的身体)は、言語ゲームのうちで形成された関係的ルールとしての「よい-わるい」を、内面化し、感受化し、身体化するのである。

*人間の幻想的身体は、つねにすでにこうした発生的プロセスの集積であり、その縮約された所産である。幻想的身体の発生論はこのプロセスの本質構造の洞察にほかならないが、それは、以下のようなエロス中心性の転移の道すじをたどる。 ①身体的「快-不快」と、その展開としての「エロス的予期—不安」 ②「身体的-能う」のエロス ③「関係感情」の生成による関係的エロス ④「初期禁止」を契機とする「よい-わるい」「きれい-きたない」の審級の生成 ⑤ルール規範の順守をめぐる承認価値、すなわち「自己価値」エロスの生成順次、その転移と形成の構造を洞察しよう。

①身体的「快-不快」、「エロス的予期-不安」 *人は生まれ落ちるやただちに母-子関係の世界へ投げ込まれる。この関係の基礎構造を「要求-応答」関係と規定できる。 誕生直後から、子(乳児)は身体的ノイズ(不快)への反射として泣き声を上げるが母はこの「泣く」を一つの要求として受けとり、これにに配慮的に応える。つまり母-子関係は、まず子から母への一方向的な要求-応答関係として開始される。 ここでは子の身体のエロス性は、「快-不快」の審級をその中心性としてもつ。不快は「泣く」を喚起し、母による配慮的応答によって「不快」が取り除かれて「快」がもたらされる。生理的身体における直接的「快-不快」が、子の身体エロスのはじめの審級である。 この一方向的な要求-応答関係とともに、母-子の間の「言語ゲーム」もまた始発する。ただしそれは、子から母への一方向的要求-応答関係とは逆に、母からの一方向的な言語ゲームとして始発する。しかし母は、あたかも子が自分の言葉を理解するかのように子に語りかけつづけ、このことがやがて子を双方向的言語ゲームに引き入れることになる。

*フロィトは、人間の性発達を、口唇期(こうしんき)、肛門期、男根期、潜伏期という段階発展説としておいた。これ自体は「物語」仮説とは言えないが、しかし、それぞれに、検証可能性をもたない独自の空想的仮説が添えられている。 口唇期では、乳児は授乳から快感(口唇的エロス)を引き出すことを覚え、その反復は体制化されて自律的となり、自慰行為の発端となる。子が去勢複合の危機を適切に克服できないとき、口唇的エロス体制への固着が生じ、成人後の倒錯的な接吻、過度の喫煙、依存的飲酒などの原因となる。また、摂食障害は、口唇性欲の強度の抑圧の結果である。さらに、肛門期への固着は、吝嗇(りんしょく)、几帳面、不従順(わがまま)という性格形成をうながす、等々。 男根期では小児の自慰行為(手淫)が強調される。男児は独自の性の理論、つまり、大人は全員ペニスをもち、女性にそれがないのは去勢の結果である、という理論をもつ。このことで、男児にとって父親による去勢の脅威はいっそう重大な切迫性をもつ(註1)。

*欲望論的発生論では、人間身体の性感的重点が局所的に転移してゆくという仮説、つまりフロイトの部分欲動的発展段階説に代えて、人間の「エロス的中心性の転移」の概念をおく。人間のエロス性はその中心を部分欲動の転移としてではなく、エロス審級それ自体の転移として展開するのである。

*最初期の乳児のエロス性が口唇部に局限されていることは、誰にも理解できる。乳児が世界と交渉する唯一の行為は泣くこと、吸うことに限られているからだ。この段階では、子のエロス性は「快と不快」(あるいは「満足と不満足」)という最も初期的な審級をもつ。しかしこの経験の反復は、「快-不快」という身体エロスの中心性をつぎの地平へと転移させる。 はじめ身体的ノイズへの反射にすぎなかつた「泣く」は、やがて一つの「要求」としての意味を明確に帯びるようになる。あるいは、母がそれを何らかの要求として確信的に聞き分けるようになる(註2)。 こうして「泣く」は、不快に対する反射から一つの要求的行為(企投)となり、母の応答を実現する子にとっての「能う」となる。

註1:女児の性生活についても、空想力に富んだ仮説がある。女児は「母親に子供を作らせたいという願望と、それに照応する母親のために子供を産みたいという願望」(『精神分析入門(続)』懸田克窮・高橋義孝訳、P483)に固執するが、この願望は十分に充たされず、自分にペニスがないのは「母親のせいである」へと転化され、この「母親嫌悪」と「ペニス羨望」が「男性になりたい」という潜在的欲望を形成する、と。 註2:ハリー・スタック・サリヴァンは、『精神医学は対人関係論である』で、乳児が母親の応答の仕方に応じて「空腹時啼泣(ていきゅう)」と「冷感時啼泣」を徐々に使い分ける様子を描写している。母の注意深い耳には、乳児の「泣く」は、「呼ぶ泣き」、「せがむ泣き」、「甘え泣き」、「怒り泣き」、「嘘泣き」などとして聞き分けられる。つまり母は、子の「泣く」を分節された要求企投として受け取る。

またこの経験の反復は、「快-不快」のエロス審級を時間化して「エロス的予期—不安」という審級へと進む。「泣く」は身体ノイズの解消への「期待」を形成し、同時に一定の間、期待が満たされるか否かの「不安」(=ノイズ)を耐えねばならないからだ。

②「身体的-能う」のエロス

*乳児の育児経験をもつものには、つぎのことはよく知られている。乳児は二週間前後をすぎると「泣く」→授乳→満腹→睡眠という初期的サイクルを脱し、能動的な身体活動を活発化させる。まず「泣く」ことが多様な要求の分節を帯び、「見ること」や「聞くこと」が新しい身体能力として展開し、さらに四肢の運動性が急速に高まる。 多くの母親は、抱かれている乳児が足を突っ張って母親に立つことを要求し、立ち上がると次には泣いて「揺すれ」と要求しているかのように感じる、といった経験をもつ。すなわちこの段階では、乳児は、そのエロスの中心性を、口唇的自体愛(オートエロティシズム)から自己身体の運動能力の拡大のエロス、つまり身体的「能う」のエロスへと転移することがみて取れる。

*『知能の誕生』でジャン・ピアジェは、生まれて間もない幼児のほぼ反射的な「吸啜(きゅうてつ)」、「把捉」等の運動が、経験の反復(学習)によっていかにして「調節」と「協応」をそなえた主体的な行為へと発達していくかという事態を観察する。ピアジェによれば、この最も初期の一次的な「同化」と「調節」の体制は、次の「獲得性適応」と呼ばれる段階の基礎となる。 生後一、ニヵ月から、一次的な吸啜反射のうえに「まったく新しいタイプの吸啜活動」が現われる。舌を絶えず動かす運動は、すぐに「舌を下唇の上にすべらせたり、たえずなめまわしたりして」遊んでいるように見える。やがて、自分の指を唇に運んで吸うことに習熟し、三ヵ月目には、「あらたに視覚や音声などに対する興味が生じてきたために、指吸いは彼にとって以前ほど重要なものでなくなって」くる。こうした身体的活動の主体的展開は、「獲得性適応」や「循環反応」の概念で呼ばれる。 さらに、幼児は、空腹のときには「空吸い」やあてがわれた指吸いに満足せずに泣く(つまり母を呼ぶ)が、空腹ではないときには空吸いや指吸いを飽きずに反復する。 ここでのピアジェの主張の要点は三つある。 まず、新しい反復の運動は単なる反射とはみなされないこと。つぎに、新しい運動は以前に反復によって習得された運動能力を基礎として、徐々に複雑な能力を獲得していくこと。最後に、この展開を推し進めるのは子どもの「探求行動」の能動性であること。この能動性と獲得された身体の能力との相互関係を、ピアジェはジェームズ・マーク・ボールドウィンから受けとって「循環反応」と呼ぶ。 《偶然得られた興味ある結果をこのように保持することが、ボールドウィンのいう《循環反応》である。われわれが事実の記述において用いてきたこの概念こそ、まさにこの第二段階の位置を正確に定義するものだと思われる。つまり、循環反応は新しいものの発見と保持を含んでいるという点で純粋な反射と異なり、他方、この循環反応はまだ意図性以前のものであるという点で真の知能にいたる前段階にあるのである》(『知能の誕生』谷村覚・浜田寿美男訳、p146) ピアジェの観察は、幻想的身体の発生論の観点からはつぎのように変奏される。 乳児は、指を口に近づけて吸う動作を試行錯誤しつつ反復し、やがて指を正確に口にあてがうことができるようになる。そのあと、この行為が何度も反復されるのは(「知能」の発達というより)、身体の「能う」の拡大が幼児のエロス性の新しい中心となるからだ。 ここで幼児のエロス性は、身体の直接的な快-不快のエロスから、身体によって何かが「できる」ことのエロスへとその中心性を移しているのである。

③「関係感情」のエロス

*エロス中心性の転移のつぎの段階は、身体的「能う」のエロスから「関係感情」のエロスへの転移だが、この段階を象徴するのは乳児の「笑い」である。 一般に、人間だけが明瞭な「笑い」の表情をもつとされるが、その発生論的意義はきわめて大きい。視覚の能力が現われると乳児の世界は大きく拡張される。視野に何か新規なものを認めると、乳児は単なる反射を超えた「笑み」の表情を示すようになる。このことに気づいて、母は、乳児の視界に何か動くものを示して「笑み」を引き出そうと試みるだろう。こうしたプロセスをとおして、「笑い」(笑み)は、母-子の対他的関係の領域すなわち内的なエロス的交換の領域を形成する。 ピアジェは、彼自身の三人の子どもの「ほほえみ」について、以下のような観察をおいている。 《われわれが三人の子どもについて確かめたところでも、ほほえみはなによりもまず、すでに見たことのあるなじみ深い映像に対する反応である。よく知った対象が不意にあらわれて感情をかきたてたり、そのような光景がただちに反復されたりした楊合に、ほほえみが生じるのである》(同前、P75)。 子の「泣く」が、母にとってしだいに要求の企投として受けとられてゆくように、「笑み」(笑い)もまた、単なる反射であることから一つの要求の表現へと転化し、関係的意味をもつようになる。 母が示すある動作で子が「笑う」と、母はもっと「笑い」を引き出そうとして子を「あやす」。子はこれを喜び、こんどは母に同じ動作を「せがむ」。こうしたやりとりのうちで、子の「笑い」は、内的な「快」の表現であることを超えて、母-子における関係的なエロス的交感を生み出すための「能う」、という意味をもつ。 たとえば、母の行なう「いないいないばあ」は、子にとって、それに応答すべき母からの一つの要求として現われる。また、これに対する子の応答の「笑い」は、さらなる母の「あやし」を求める再要求としての「笑い」を意味する。こうして、笑いながら名前を呼ぶ、キスする、身体を揺らす、音を立てる、物を見せたり、消したりする、歌をうたう、などといった母の振る舞いは、子の「笑い」を媒介にして、母と子の間の交感的なエロス関係を形成してゆく。 重要なのは、この段階で、もっぱら子から母へと一方向的に存在していた要求-応答関係が、双方向的な要求-応答関係となってゆく、ということだ。子の「笑い」の能力は「泣く」によって満たされる身体エロスでも、自己身体の能力の拡張による「能う」エロスでもなく、一つの新しい関係的エロス審級を創り出すのである。

*この相互的な愉楽の交換-交感の段階では、自我と他我という明確な区別はまだ形成されない。両者はだだ「笑い」の表情によって互いにエロス的情動を交換しあう。アンリ・ワロンは、母-子関係のこの段階を「情緒的共生」の段階と名づけているが、同じく、ダニエル・ N ・スターンは、この段階の現象を「情動調律」の概念で示している。 《情動調律とは、内的状態の行動による表現形をそのまま模倣することなしに、共有された情動状態がどんな性質のものか表現する行動をとることである》(『乳児の対人世界理論編』神庭靖子・神庭重信訳、P166) スターンはいう。情動調律の特徴は、①模倣が起こったかのような印象を与える、②そのマッチングは知覚様式交叉(こうさ)的に起こる、③マッチさせるのは相手の行動ではなく、相手の感情状態を反映するような行動である、など。 「笑い」「あやし」「せがみ」といった交感的関係が現われる段階は、母-子の間に生じるエロス的情動の交換の領域の生成をよく示唆する。 ここでの関係的な交感によって生じるエロスの領域を、私は「関係感情」と名づける(厳密にはまだ感情というより内的情動だが、この領域は人間の感情世界を形成する原領域であり、やや先んじた形で「関係感情」と呼んでおく)。この段階において、子の身体的な快—不快のエロスは、関係的エロス(情動的・感情的な快-不快)へと転移し、母-子の間に、親和、慈愛、歓待といったエロス的「関係感情」の領域が形成される。 関係感情の世界は、子にとってまだ自我と他我が明確に区分された世界ではない。しかしこの世界の成立は、子が、事物的対象とともに「他我」存在の存在確信を形成するはじめの地盤である。以後、この「関係感情」の世界は、人間の心的世界を根本的に性格づける対他的「感情世界」の形成の基礎となる。

宿題

設問

文中に「ここでの関係的な交感によって生じるエロスの領域を、私は『関係感情』と名づける」とありますが、この相互的な愉楽の交換・交感が行われる段階において、自我と他我の区別はどのような状態にあるとされるか、アンリ・ワロンが名付けた「情緒的共生」を使って説明しなさい。

参加者の回答

回答 1

「笑う」を例にすると、今までの子から母への一方向的な要求・応答関係が双方向的な要求・応答関係を創り出し、関係的エロス審級を創り出す。この段階で子は自我と他我の区別を明確にはできない。笑いの表情でエロス的情動を交換し合う状態であり、アンリ・ワロンはこの段階を「情緒的共生」と呼んだ。つまり、子の身体的な快-不快のエロスは関係的エロスへと転移し、母子間にエロス的「関係感情」の領域が形成され、「他我」存在の存在確信を形成する初めての地盤となり、感情世界の形成の基礎となる状態である。

回答 2

アンリ・ワロンがいう「情緒的共生」の段階は、母子はただ「笑い」の表情によって互いにエロス的情動を交換しあう。 これは、相互的な愉楽の交換-交感の段階で、自我と他我という明確な区別はまだ形成されていない。 しかし、この世界の成立は、事物的対象とともに「他我」存在の存在確信を形成するはじめの地盤であり、人間の心的世界で対他的「感情世界」の形成の基礎となる。

回答 3

母-子関係の相互的な愉楽の交換-交感の段階では、子にとって自我と他我という明確な区分はまだ形成されていない。子の情緒は母親の感情に大きく影響を受け、母-子の情緒が一体化・共有された状態にある。これをアンリ・ワロンは「情緒的共生」と名付けた。 この情緒的共生を通して、子は、事物的対象とともに「他我」存在の存在確信を形成していくのである。

回答 4

アンリ・ワロンの言う「情緒的共生」を、ダニエル・N・スターンは「情動調律」という語で示している。「調律」という語から、「笑い」の表情によって感情を互いに交換し合う子と母の感情状態が合致していることがわかる。このように感情の送り手と受け手との感情状態が合致していることを踏まえると、関係感情の世界は自我と他我が明確に区分された世界ではないと言える。(173)

回答 5

この段階において、自我と他我という明確な区別はまだ形成していない。  子から母へと一方向的に存在していた要求-応答関係が、双方向的な要求-応答関係となってゆく。とくに「笑い」の能力は互いにエロス的情動を交換しあう「情緒的共生」の段階という状態にあり、事物的対象とともに「他我」存在の存在確信を形成するはじめの地盤である。