東大阪の学び場|マナビー

第2回「新・哲学入門」
竹田 青嗣 著(講談社現代新書)

講師:居細工 豊

キーワード
「食糧革命(農業革命)」「普遍暴力」
「統治権力(国家)」「宗教と物語」
「哲学と普遍洞察」

第二節 普遍暴力


*人間の歴史は「普遍暴力」の原理に貫かれている。このことを哲学の「原理」としてはじめて示したのはトマス・ホッブズである。彼の原理「万人の万人に対する戦争」はよく知られているが、しかしその意義の重大さはほとんど理解されていない。
ホッブズは、戦争の根本原因を「相互不安」(=不信)とし、そこから、相互不安の解消、つまり強力な統治権力(国家)の設立こそが戦争抑止の根本条件であると説いた。近代哲学はホッブズのこの原理の意義を深く理解したが、現代哲学はその意義を完全に見落とした。ここでは、近代国家批判ということが時代の中心課題とされたからだ。そのためホッブズの原理は、近代国家の擁護の思想とみなされ、この原理の本質的意義が看過されたのである。
だが、人類の歴史を鳥瞰(ちょうかん)するなら、ホッブズの「原理」の普遍性と重要性は何ぴとにも疑いえないものとなる。

*約一万年前に人類に食糧革命(農業革命)が生じた。この出来事は人間の生に福音をもたらすかに見えたが、じつはかえって人類を未曽有の悲惨の中に投げ入れた。食糧と財をめぐる普遍戦争が開始されたからである。 世界史は、どの文明でも、まず戦争共同体としての諸国家どうしの群雄割拠時代をもち、そこからこの普遍戦争の必然的な帰結として大帝国の類型が現われたことを教えている。秦帝国、マウリヤ朝、ペルシャ帝国(その後イスラム帝国へ)、そしてローマ帝国。

*大帝国はおおよそ二〇年から三〇〇年ほど続く。その間は普遍戦争は止むが、支配の体制が綻びて解体すると、その領域は再び普遍戦争状態となる。そこから再び覇者が登場して大帝国がうち建てられるが、それは例外なく絶対的な専制収奪支配の統治となる。 絶対支配の構成は、歴史をとおしてほぼ、一五パーセントの支配層と、八五パーセントの限界的隷属状態の被支配者層である。しかし、この絶対的な統治状態の成立だけが、戦争を終わらせて人間の生活を可能にする。ひとたび戦争状態が始まると、人々はたちまち恐るべき悲惨のうちに投げこまれることになるのである。 中国から例を取ろう。普遍戦争の過酷さは想像を絶するものだ。春秋戦国時代、秦帝国、その後の混乱期、三国時代をへて晋が覇を宣するまでの問、絶対的統治と戦争状態の交代が続く。この間、約六〇〇〇万ほどの中国の人口が、半数へ、あるいは五分の一、七分の一以下にまで激減するといった事態が何度も繰り返されている(岡田英弘『中国文明の歴史』など)。

*普遍戦争の悲惨さは、もちろんどの文明においても不変である。私はこれをつぎのように総括したい。
人類にとって戦争と死の威力が避けがたいものとなって以来、普遍暴力との対抗、あるいは普遍暴力の縮減という課題こそは、人間生活の根本条件となった。そこから人間生活における最も根本的な工夫と試みが、すなわち、暴力縮減のための根本的工夫、すなわち、宗教、共同体、国家が現われた。マルクス主義は、宗教と国家の本質を支配のための幻想的システムとみなしたが、根本的な錯誤というほかはない。人間世界におけるこの避けがたい根本状態を、私は、ホッブズから引き取って「普遍暴力」原理と呼ぶ。

*なぜ人間社会では、普遍暴力原理が貫徹するのか。 動物の世界は絶対的な弱肉強食の原理に貫かれている。一方、人間の世界を貫くのは、弱肉強食ではなく普遍暴力の原理である。ホッブズはその本質的理由をきわめて正し く洞察している。 動物の世界では生来の体力の差が自然に秩序を決定する。だが人間世界ではそうならない。なぜなら、人間は、「策略」(machination)と数を集めるという方策をもつ。だからもっとも弱い者も《もっとも強い者をも倒すだけの強さを持っている》(『リヴァイアサン』永井道雄・宗片邦義訳、P154)。このことが人間世界を、絶対の弱肉強食ではなく「普遍暴力」の世界にする。
ここから、二つの契機が人間世界を根本的に規定する。一つは暴力原理と相互不安であり、もう一つが、暴力を縮減するための規範=ルールによる社会秩序の創設である。

*人間がなぜいかにして言語(それゆえ言語ゲームの世界)をもったのか、という起源論は重要ではない。むしろ人間世界が言語ゲームの世界であることの根本の意味は何か、と問わねばならない。
言語によって、人間の世界は、動物がもつ「環境世界」から離脱して「関係世界」となる。言いかえれば、人間どうしの幻想的な関係の世界となる。ここから現われる、最も重要な、また第一の帰結は、人間世界が、弱肉強食の世界ではなく普遍暴力の世界となる、ということだ(普遍暴力の契機が、言語の能力に由来することは明らかである)。
しかしここから第二の帰結が現われる。普遍暴力の縮減が人間社会にとって最も重要な課題となるが、この課題はまた、言語による共同的なルール形成によってのみ可能となる、ということ。そしてもう一つ重要なのは、ここから、人間の文化的、幻想的制度性の一切が生じてきた、ということである。

*共同体の始元のルールは「汝(なんじ)殺すなかれ」であり、このルールが確立されないところでは共同体は成立しない。宗教の「世界説明」は、超越的な存在の「畏怖」によってこのルールに実効性を与える。これについてわれわれは、ミルチャ・エリアーデやジョルジュ・バタイユによる宗教についての興味深い根本仮説、宗教の物語と儀式の本質は「殺害の禁止」にある、という仮説をもっている。
つぎに、人間世界における言語ゲームだけが、人間生活の根本をなす親和-倫理関係を育て上げる。だが、家族を中心とした人間どうしの親和的-倫理的関係、すなわち同情、憐憫(れんびん)、共感、相互扶助、共存といった関係感情の世界は、生活の領域が普遍暴力の脅威から守られているかぎりで可能となる。
こうして言語ゲームによって形成される人間の関係世界では、一方で、たえず露出しようとする普遍暴力の契機があり、もう一方でこれを制御するための規範=ルールと秩序形成の契機とが、つねにせめぎあっているのである。

*以下に、普遍暴力の恐るべき威力を象徴する証言がある。
《諸都市における両派の領袖たちはそれぞれ、体裁のよい旗印をかかげ、民衆派の首領は政治的平等を、貴族派は穏健な良識優先を標榜し、言葉の上では国家公共の善に尽すといいながら、公けの益を私物化せんとし、反対派に勝つためにはあらゆる術策をもちいて抗争し、ついには極端な残虐行為すら辞さず、またこれを受けた側はさらに過激な復讐をやってのけた。かくのごとき争いに陥ちたものらは、正邪の判断や国家の利害得失をもって行動の規範とはせず、反対派をしたたか傷つけるその場の快感が得られるまで争い、当座かぎりの勝利欲を貪婪(どんらん)に充たさんがためには、不正投票による判決であれ、実力行使の横暴であれ、権勢獲得の手段であれば、何のためらいもなく実行に移した。したがって、何れ(いず)の派も何をなしても心に恐れとがめる者はなく、たくみな口実を設けて、人としてなすべからざるをなした者らが、かえって好評を得ることとなった。それのみか、中庸を守る市民らも難を免れえなかった。かれらは両極端の者たちから、不協力を咎められ、保身的態度をねたまれて、なし崩しに潰滅していった》(トゥーキュディデース『戦史』中、久保正彰訳、P102)
《要するに史家とはただ経験が立証すると思える考察、すなわち、われらが恐れねばならぬのは、自然の天変地異などではなく、むしろはるかにわれら人間の抱く情念激情であることを指摘するだけで満足すべきであろう。たとえば地震、洪水、暴風雨・さては噴火などのもたらす災害だが、これらは世の常の戦争の惨禍などに比すれば、ほとんど言うにも足りぬはず》(エドワード.ギボン『ローマ帝国衰亡史』第四巻中野好夫ほか訳p199)

ヘロドトス、トゥキュディデス、司馬遷、そして後代のギボンといった歴史家の著作のうちにわれわれは、普遍戦争と普遍暴力の脅威についての赤裸々(せきらら)な証言をみることができる。
対立が激化し、相互不安が高まると、普遍暴力の契機が露出する。そこではただ、闘いに勝利すること、生き延びることへの要求が一切の人間的配慮を凌駕(りょうが)する。他者への不誠実や背信、さらに裏切り、陰謀、策略などもやむなきものとみなされる。この場面では、人間生活の基礎をなす、親和-倫理関係、つまり人間的な「真善美」の秩序は姿を消し、人は「人間としての生」を投げ捨てることを余儀なくさせられる。人間が、他者たちとの共存の世界を生き、関係的な善への意志と努力を持続できるのは・ただ・暴力と戦争の威力から自分たちを防衛している間だけである。

*どの文明においても、まず宗教による世界説明が現われる。宗教の世界説明は「物語」(説話-寓(ぐう)喩(ゆ))によってなされる。たとえばそれは、唯一神による天地と人間の創造、堕罪(だざい)による楽園からの追放、罰としての死すべき運命、といった神話的物語によって、人々に「世界の意味」を教える(エリアーデ)。
哲学は宗教のあとに登場し、これとは違う方法によって世界説明を行う。ギリシャ哲学の発祥、ミレトス学派の哲学の理説を見れば、その方法の独自性がよく分かる。
哲学の開祖タレスは「万物の原理は水である」と説いた。その意は、現代風にいえば、「水素は最も単純な原子である」、というのとほぼ等しい。世界は最も単純な要素物質から組成的に構成されている、ということだ。
 だが、その弟子アナクシマンドロスはこれを修正して、万物の原理(始元(アルケー)のもの)を「無限(トアぺ)な(イロン)もの」と呼ぶ。水をいくら集めても水しかできず、世界の森羅万象の多様性を説明できない。そこで、そのうちに無限の性質を含む「無限なもの」を「原理」と考えるとよいと。しかしさらに、アナクシメネスは、「空気」を原理とすべきと主張する。彼によれば「無限のもの」は、誰も確証できない単なる観念的抽象物にすぎないからだ。

*ミレトス学派の三人の哲学者の「原理」の進み行きは、哲学の思考の根本方法をこの上なく鮮やかに示している。宗教は「物語」によって世界説明を打ち立てるが、哲学では「物語」を使わず、概念を論理的に使用し、「原理」(思考の中心となるキーワード)をおき、そしてこの「原理」を継承しつつ再展開する。つまり、概念、原理、その再展開(再開始)の三つを、哲学の方法の根本原則とみなすことができる。
哲学の方法が「普遍洞察」の方法となるのは、哲学者の一つ一つの原理説においてではない。哲学のテーブルの上で、提示された「原理」が時代のリレーの中でより多くの人間が納得できるものへと鍛えられてゆくことによってである。 宗教の「物語」では、教祖の世界教説がどこまでも堅持され、存続させられる。これに対して、哲学の「原理」は、時間の中でより普遍的な説明へと試されつづけ、変成しつづけるのである。

*ギリシャ哲学は、約二五〇年の間、いかなる言葉で世界の「原理」を示すかについての開かれた「言語ゲーム」を存続させた。そこで、ピュタゴラス、ヘラクレイトス、エンペドクレス、アナクサゴラスなどの哲学者をへて、プラトン、アリストテレスの最盛期にいたるまで、「数」「火」「四根」「ヌース」「イデア」といった諸原理が提示された。
この経緯のうちで、ギリシャ哲学が成し遂げた最も重要な成果を二つ示すことができる。まず第一のものは、やがて自然科学へと進む、自然哲学の方法が確立されたことである。
ギリシャの自然哲学は近代になって近代科学の方法として確立される。ここで、自然哲学と自然科学を根本的に区別するのはただ一つである。自然科学は、自然哲学で提示された「原理」を仮説とし、これを、実際に自然に働きかけて確証-検証する方法、として自立する。要するに、仮説を検証するための「測定(テクノ)技術(ロジー)」の発達が、自然科学の成立の本質条件である。
ちなみにギリシャ哲学における「原理のリレー」を通覧すると、つぎのことも分かる。哲学の思考は、個々の哲学者が提示する原理のリレーの全体を通して、質量、形式、動因、全体像(究極原因)という、現代物理学の根本カテゴリーを生み出しているのである。

*ギリシャ哲学のもう一つの成果は何か。ヨーロッパの全哲学はプラトン哲学の脚注にすぎない、というアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの言葉はよく知られている。世界の「原理(アルケー)」の全域を探求したギリシャ哲学は、ソクラテス、プラトンまで来て、「価値」(真善美)の問いを哲学の最も根本の主題として示した。このことでギリシャ哲学は、その後のヨーロッパ哲学の全域にわたる三つの根本主題を確定する。すなわち認識論、存在論、価値の哲学という三領域であって、この意味でホワイトヘッドは正しい。
 ただし、認識論はヨーロッパ哲学における解きえない難問となり、このことはまた、ヨーロッパ哲学における価値の哲学の基礎づけを大きな困難に直面させた。 まさしくこれが本書の申心主題となるだろう。

*さて、「世界説明」としての宗教と哲学には、それぞれ功罪がある。宗教は、なにより聖なるものの威力によって共同体に根本的なルールを与え、そのことで暴力契機の縮減を 試みる。さらに「物語」によって「世界の意味」を教えて、生の苦しみに耐える力を人々に与える。だが、宗教の物語(教義)は、本質的に共同体の「世界説明」であって、その限界を超え出ることができない。そのため、それがぶつかり合うところではむしろ対立や戦いの原因となる。
これに対して、哲学は、概念、原理、再展開(再始発)という方法によって、宗教、民族、文化の限界を超えて普遍的な「世界説明」の創出のゲームとなるのである。

*哲学のゲームが生じるための三つの条件がある。まず、あらゆる言説が自由に許される空問、つぎに多様な考え(価値観)をもつ人間が交流する場所、そしてそれらが一定時間持続すること。この三つの条件がはじめて哲学のテーブルを可能にする(中国春秋戦国時代の諸子百家、インドの六師外道の時代がその典型だ)。この空間においてのみ、多様な考え方と価値観が自由に交流し、その違いを超えて、より広範な人々を納得させる考え方(原理)が鍛えられてゆくからだ。
だが、哲学にも大きな弱点がある。それは哲学の世界説明が概念の論理的使用によってなされる、ということに由来する。概念の論理的使用は、どんな結論をも論理的に導く帰(き) 謬(びゅう)論法(詭弁論)を必然的に生み出す。哲学の方法のこのやっかいな性質にいち早く気づいたのは、ゼノンであり、ソフィストたちであり、中観派のナーガールジュナ(龍樹)である。
まさしくこの弱点から、普遍洞察をめがける哲学には、形而上学と相対主義(懐疑主義)という「鬼子」がつきまとう。そしてここから、哲学の「認識問題」がその固有の難問として現われるのである(「物語」を根本方法とする宗教には認識問題は現われない)。

*哲学は、普遍洞察の方法によって「世界説明」を行なうと言ったが、むしろこういえる。およそ人間だけが言葉によって世界説明を行なうが、その根本方法は、「物語」によるか「普遍洞察」の方法によるかの二つしかないと。 哲学は、それまで存在しなかった普遍洞察という新しい世界説明の方法を拓(ひら)いた。普遍洞察の方法は、それ以来、哲学、数学、科学、論理学の根本方法として生き続けている。だが「物語」の方法が世界説明として劣っているわけではない。それは、詩、文学、歴史として、その本質と本領を存続させている。普遍洞察の方法はわれわれの理性的な判断に働きかけ、物語の方法は、われわれの感情と心情に直接働きかけるのである。

レジュメ
おさらい
Pick Up!

帰謬きびゅう論法(詭弁きべん論)

※帰謬法または背理法とは、ある事柄の否定的見解が不条理ないし馬鹿げた結論、あるいは矛盾する結論になることを以て、ある事柄の正しさを主張しようとする論法である。もしくは、起こり得る事実や選択(シナリオ)を列挙した上で、それぞれの結論が不条理や馬鹿げた結論になることを以て、それ以外の残ったものが正しいとする論法とも言い換えられる。(ウィキペディアより)

【ゼノンのアキレスと亀】
証明できる

論理上では、空間は無限に分割できる。それならば、アキレスが亀のいた地点に着いたときには、すでに亀はいくらか先に行っているのだから、それが無限に繰り返されて、論理的には【アキレスは亀に追いつくことは永遠にできない】。
しかし、現実は【アキレスは、のろまな亀を追い越す】ことは明らかである。

第2回『新・哲学入門』著竹田 青嗣|レジュメ 講師:居細工 豊

論理が陥いる過ち

概念の論理的使用は、どんな結論をも論理的に導く帰謬きびゅう論法(詭弁論)を必然的に生み出す。

第10回『相対主義=懐疑論者・証明できる』

詭弁に陥らない為には

【ヴィトゲンシュタインの考察】
写像によって欺かれる

一本の紐が地球の赤道のまわりにぴたりと張られていると仮定する。 そのとき、この紐に1ヤードの長さの紐がつけ加えられたとする。 もしこの紐全体がぴんと張られ、円状の形になっているとすると、 それは地表どのくらいの高さになっているか?

普通は、答えを計算もせずに、すぐさま地表から紐までの距離は非常に微小で、目に見えないくらいだろう、 と言いたくなる。しかし、これは間違いで、実際の距離はほぼ六インチになる。

ヴィトゲンシュタインは、この種の過ちこそ哲学に起こる過ちである、と主張した。
それは写像によって欺かれるということである。

第2回『新・哲学入門』著竹田 青嗣|レジュメ 講師:居細工 豊

検証(実験)を経て確信へ

直観や仮説を立てたことを、たくさんの人と意見を交換し、また測定可能なものは実験をすることで検証を行う。この様に、検証を通して直観を確信へと導くプロセスが普遍洞察である。 反対に、他人の意見に耳を傾けず、自分に都合のいい偏った意見や情報ばかりを集めることで「直観の補強」に陥ってはならない。

第1回『写像によって欺かれる』

まとめ

『食糧革命と普遍暴力』

約一万年前に人類に食糧革命(農業革命)が生じた。この出来事は人間の生に福音をもたらすかに見えたが、じつはかえって人類を未曽有の悲惨の中に投げ入れた。食糧と財をめぐる相互不安から普遍戦争が開始されたからである。
言語によって「策略」(machination)と数を集めるという方策をもつ人間世界では、食糧革命以降、絶対の弱肉強食ではなく「普遍暴力」の原理が貫徹される。

『普遍暴力縮減のための哲学』

戦争抑止のシステムとして統治権力(国家)が設立される。絶対的な統治だけが、戦争を終わらせて人間の生活を可能にするが、支配の体制が綻びて解体すると、その領域は再び普遍戦争状態となり、それが繰り返される。
この悲惨な「普遍暴力」を縮減するには「言語による共同的なルール形成」のみが実現可能な手段となる。

近代社会

社会主義(マルクス主義が本来「戦争抑止の根本条件」である国家や宗教の本質を「支配のための幻想的システム」とみなしたことは錯誤である。)が、平等を実現しようとしたが、本質的に自由を保証しなかったために、政治システムとしては決してうまくいかなかった。
経済システムとしては「資本主義」、社会制度としては「民主主義」のみが我々の自由を保証しながら、普遍暴力を縮減する共同的なルールとなり得る。

第10回 授業中の対話『自由について』

『哲学が目指すもの』

哲学は、概念、原理、再展開(再始発)という方法によって、宗教、民族、文化の限界を超えた「世界説明」を行なうことができる。

哲学のゲームが生じるための三つの条件 

あらゆる言説が自由に許される空問
多様な考え(価値観)をもつ人間が交流する場所
それらが一定時間持続すること

授業中と後のエピソード

直観を検証する

授業中、ヴィトゲンシュタインの実験を行った際に、講師の居細工先生が、コップから紐までの距離を6センチと表現。 講義を受けていたDさんは、実際に実験したとき、1メートルより短い70センチ程の紐を付け足しただけなのに、円の半径が11センチも伸びたのだから、1メートル付け足したら6センチ地表から浮く、という居細工の発言は間違っているのではないかと思い、家に帰ってから実際に計算し(検証し)、正しくは16センチだと判明。その後、その間違いの指摘を受け、居細工は訂正しました。

先生からひとこと

これは直観を検証すると言う、他にはない素晴らしい例だと思います。
先生の言う事だから間違いなかろうと思うのは、直観補強です。
自由との関連で言えば、Dさんのように、自分の内部から出てきた疑問が、他者の考え方と違うときに、きちんと自分で考えて、検証して、その結果を誰にも邪魔されずに表現できることが自由であり、逆に、その結果を、先生や、その支持者・信奉者や、自分自身が、否定したり抑圧したりすることが不自由だと思います。