東大阪の学び場|マナビー

第1回 哲学のマナビー

講師:居細工 豊

キーワード
『写像によって欺かれる』

次の文章は『放浪』回想のヴィトゲンシュタイン【法政大学出版局】からの引用である。


文中の『写像によって欺かれるということ』について、
ある招待会でヴィゲンシュタインは、
哲学の性質にいくばくかの光明を投げかける目的で、
謎々を一つ出した。
それはつぎのようなものであった。

一本の紐が地球の赤道のまわりにぴたりと張られていると仮定せよ。

そのとき、この紐に一ヤードの長さの紐がつけ加えられたとする。
もしこの紐全体がぴんと張られ、
円状の形になっているとすると、
それは地表どのくらいの高さになっているだろうか、というのである。

そこに居た人たちは皆、答えを計算もせずに、
すぐさま地表から紐までの距離は非常に微小で、目に見えないくらいだろう、
と言いたくなった。

しかし、これは間違いで、実際の距離はほぼ六インチになるのである。
ヴィトゲンシュタインは、この種の過まちこそ哲学に起こる過まちである、と主張した。

それは写像によって欺かれるということである。

この謎々の中でわれわれを欺いた写像は、
つけ加えられた紐の長さと紐全体の長さを比較したことである。
この写像そのものは十分に正しい。
一ヤードの長さは全体の長さから見れば、無意味なほど小さな部分であろうから。
しかし、われわれは、このことに欺かれて、間違った結論を引き出したのである。
これに類似したことが哲学の中で起こる。
われわれは常時、それ自体は正しい心的写像によって欺かれているというのである。
欺きやすい写像についてヴィトゲンシュタインの挙げたもう一つの顕著な例は、
地球をボールのように丸く画き、地球の反対側にいる人をさかさまにして、
われわれを直立させる絵であった。

かれの言うには、こうした絵は間違った表現ではない。
にもかかわらず、そのために、われわれは、反対側の住人がわれわれの下のほうに居て、
実際頭を下にしてぶら下がっている、と考えたくなってしまう。
(この例は『探究』第三五一節でとり上げられている。)


※写像をもっとわかりやすい言い方で言い換えますと、【類比的想像】と言うことになると思います。

文中の『写像によって欺かれるということ』について

設問1

円周の増加量はもともとの円の半径に関係なく一定であることを証明せよ。

設問2

『写像によって欺かれ』ない方法を提示せよ。

設問3

『写像によって欺かれる』ことのメリットを提示せよ。

ヒントでピンと

具体的に言いますと、A.長さ2メートルの紐に1メートルを付け足すとどうなるか。
もちろん3メートルになります。
次に、B.地球の赤道の長さ46,000キロメートルの紐に同様に1メートルを出すとどう見えると思うか?
という問題が出されたとすれば、
A.の2メートル+1メートルとB.の想像上の46,000キロメートル+1メートルと比較すると、
Bの46,000キロメートルに付けたされた1メートルは、
ほとんどゼロに等しいと誰もが想像するわけです。

この【類比的想像】は、全く正しい想像なのです。

次に、もう簡単と思いますが、《写像に欺かれる》について解説します。

A のひもにとって、付け足された1メートルが持つ意味[価値]と、Bのひもにとって、
付け足された1メートルが持つ意味[価値]は、全然違います。
Bにとっての1メートルはゼロに等しい。

ところが、
1メートル付け足される前と、付け足された後のAの紐の半径の違いと、
1メートル付け足される前と、付け足さされた後のBの紐の半径の違いを比較して、
Bの紐の半径はどれぐらい伸びたと思うかと言う質問を考えたとき、
先の写像を適用すると間違えるわけです。

つまり、ほとんど半径は伸びないと想像してしまうわけです。
この間違った写像の適用は誰でもしたくなるわけです。
ですから、写像によって欺かれる、とウィトゲンシュタインは言ったのです。
実験で納得せざるを得なかったようにどのような円周に対しても、
1メートル円周を長くすれば、どんな円の半径も必ず15.932センチメートル位大きくなるのです。

※写像の概念はもともと数学の集合で使われるものです。
2つ以上の集合の要素間での対応のあり方を写像というのが本来の定義なのですが、
これでは分かりにくいので、【類比的想像】としました。

出題の意図

自分の類推が、大抵は正しいんだけれども、
たまに間違えることがあるということの具体例を示すことで、
冷静な推論と謙虚な姿勢の大切さをわかってほしい。

拡張問題

それでは皆さんに質問です。
このように写像に欺かれないためにはどのような心がけが必要か答えなさい。

設問1. 最初は正しい写像の具体例を挙げること。

設問2. その次に、写像に欺かれると言う具体例を挙げて

設問3. 最後に欺かれない方法を述べること

設問1と設問2ができたら設問3は簡単にできると思いますが皆さんはどう思いますか。
なぜ設問3は簡単にできるのか答えよ。

参加者の回答【拡張問題】

回答 1

設問1. 農薬を使った野菜と無農薬野菜なら、無農薬野菜の方が健康的で体に害が無い。

設問2. 肉が人工物なら??カレー粉、カレールゥが添加物まみれなら??

設問3. 上記のようにクリティカルシンキングをする。
(自分が興味のある分野、自分に大きな影響を与える事象には特に。)
[ 事象Aだから事象Bの結果はこうだろう ] という考え方ではなく、
[ 事象Aがこうだが事象Bはこうなるのか? ]という風に、
事実や想像を直接結果に投影させて考えるのではなく、
あくまで仮定や候補の一つとして留めておく。

ex)
❌40,000kmに1mを足したところでほぼゼロに等しいからヒモは浮かない。
⭕️40,000kmに1mを足してもほぼゼロに等しいが、
間違いなく1m伸びているな?少なからず伸びるのではないか?

設問4. この4つの問では全て自分で話を筋立てて
自分で欺かれている状態を造っているので簡単に欺かれない方法を考えられる。
しかし実際土壇場になると簡単ではないし、
私生活でも写像に欺かれることが多い。
なので、この4つの問いで写像に欺かれないのは簡単であると考えてしまうことが、
最も写像に欺かれている状態であると思う。


回答 2

設問1. サッカーJリーグの試合において、0-0から1点失点し、0-1になるのと、
0-5から1点失点し、0-6になるのでは、選手やサポーターの悔しいという感情の大小が異なる。

設問2. 年間成績での失点率や得失点差を考えると、どちらも同じ価値の1失点であるので、
試合の流れによって1失点に対する悔しいという感情に大小の差が生まれることは写像に欺かれている。

設問3. ①②から考えると、写像に欺かれないためには、
現在起こっている出来事を感情的に捉えるのではなく、
視野を広く持ち、長期的に物事を捉える。

設問4. ③を簡単にできる理由は、①②の実験(円周2メートルの紐に1メートルを付け足しても、
円周46,000kmの紐に1メートルを付け足しても、
円の半径が15.923cm大きくなる)を身をもって体感することができたので、
自分が写像に欺かれているという可能性を認知することができているからである。


回答 3

設問1. フェードの方がゴルフのスコアが安定している

設問2. 日本のプロゴルファーはフェーダーが多いのでフェードの方が良い

設問3. マネジメントの軸をフェードで行くラウンド、
ドローでいくラウンドでフェアウェイキープ率、
パーオン率などのデータを参考にして、そのデータを元にフィードバックする。

設問4. 写像に欺かれている状態を自分で考えているものだから、
欺かれている状況にいるのが分かっているので何かしら対策を考えることができる。


回答 4

設問1. 1000円のものを購入した場合、
所得が月1000円の人の消費税100円と、
月500万円の人の消費税100円

設問2. 所得が月1000円の人と、
月500万円の人両方へ1000円寄付した場合、
月500万円の人への寄付を無駄に思うこと

設問3. 欺かれない方法は2つある
 1つ目はそもそも比較しないこと
 2つ目は実験やアンケートなどで、数字的根拠を証明すること

設問4. 検証・実験をして客観的事実があれば欺かれない
 もしくは、そもそも比較しない


回答 5

設問1. 100g300円の外国産の牛肉を使用した料理と
100g1000円の国産の牛肉を使用した料理では
誰もが100g1000円の国産牛肉を使用した料理を美味しい想像すること。

設問2. 国産の牛肉を使用した料理の方が、外国産の牛肉を使用した料理よりも美味しいと想像してしまうこと。
料理や食事には単なる食材の価値だけで美味しさが決定するわけではない。
どこで食べるのか?誰と食べるのか?また作り手の工夫などによって料理・食事の本質が決まる。

設問3. 「なぜ?」と疑ったり、「そもそも」と考えてアウトプットすること。
つまり感覚的な直感を当てにせず、事実や情報そしてデータを基に考え、
検証し主張(アウトプット)すること。

設問4. 日頃からロジカルシンキングやクリティカルシンキングをすることによって、
感覚的な思考や行動をしなくなるから。
つまり様々なことを検証する癖がつくから。