東大阪の学び場|マナビー

第10回 哲学のマナビー

講師:居細工 豊

キーワード
相対主義=懐疑論者
証明できる

次の文章を読んで、後の設問に答えよ。


※相対主義=懐疑論の「ナンセンス」をひとことで示すことができる。
何が普遍的なものかを主張しあう言語ゲームの中で、何者も決して普遍的なものとして主張できないという命題を”普遍的なものとして”主張する言説は、自己矛盾へあからさまな無知があるのか、ある種の欺瞞があるのかのいずれかである。
しかしにもかかわらず、1この「ナンセンス」は今もなお現代思想における中心思想(分析哲学とポストモダン思想)として生き続けている。
最も誠実な相対主義=懐疑論者はただ次のように言うべきであろう。
「普遍的認識がありうるのか、決して存在しないのか、今のところ私には一切が闇の中にある」と。

※相対主義=懐疑論における最も素朴なケース、つまり、パラドクスを発見する悦び。現実にはアキレスは亀を追い越す。現実には走るものは歩くものを追い越し、車は歩行者を追い越す。
しかし論理上は、アキレスは亀を追い越すことができず、車は歩行者を追い越すことができないことを証明できる。この証明が引き起こす難点は、パラドクスを提示した人間に論理的メタレベルに立つ悦びを与えてこれを無闇に増殖させる点にある。
現実には「客観認識」と呼ばれるものが存在している。
しかし論理上は「客観認識」のありえないことを証明できる。
この驚くべき背理、不可解な謎は、不思議な手品を習い覚えた子供のように帰謬論者たちの貴重な玩具となる。
世界には決して認識されえないものあるいは「語りえないもの」が存在する、あるいはむしろ、世界それ自体が「語りえぬもの」「不可能なもの」である、と主張すること。
相対主義=懐疑論者たちがしばしば発する感嘆。
論理上矢は飛びえないにもかかわらず、矢は飛び交うこと、論理上言葉は意味を伝ええないにもかかわらず、何事もなく言語が使用されていること、論理上世界が存在しえないにもかかわらず現実には我々は世界に存在していること、われわれは、これらの事実に「驚くべきである」と。

※相対主義=懐疑論者達は、この魅惑に満ちた背理を作り出しているのは現実の世界ではなくわれわれの「言語」の本性だということを理解しようとしない。
そのためこれらの「謎」は、世界それ自身(本体)のうちに秘匿されている謎であると言う空想が、たえずかきたてられる。

※真面目な精神としての相対主義=懐疑論者の場合。
ここでは相対主義は、硬化したドグマ主義、権威となり制度となった世界観、偽りに満ちた善悪と真偽の決定に対抗するための、すなわち人間の「内的自由」を求める動機から現れる。
端的な現実主義は、その論理的根拠を「生命を賭した戦い」による勝利者の権利に、つまり「力の論理」にもつ。
相対主義=懐疑論者はこの独断的権威主義への対抗として、現にある権威と制度の正当性と自明性に疑問符を置き、その根拠をただ論理上相対化しようと試みる。
相対主義者たちがしばしば発するキーワード。
重要なのは、既成の観念と制度の自明性を疑い、攪乱し、脱臼化し、異議を唱え、混沌化し、そして一切を自由な生命に満ち溢れたたえざる流動のうちへと投げ返すこと、このことだけが、制度によって逼塞する「内的自由」にとっての唯一の解放の可能性である、と。
一切の拘束から逃れつづけることを夢見るこの絶対自由の精神は、しかしもう一つの面で、暗々裏に、正しさについてのどんな根拠も存在し得ないことを知っており、それゆえ現実性の容認あるいは黙従のうちににアタラクシアを見出して安住する意識ともなり得る。

※相対主義=懐疑論の二つの背理。
第一に、それはただ、他の主張の正当性を論理上相対化するときにのみ自らの力を確証するだけであり、自分自身はどんな普遍的な主張を行うこともできない。

「あらゆる言説は普遍的たりえない(真実ではない)」という言説は、それが一つの主張であるかぎりで、すでに自己矛盾を含むパラドクスとなる。
第二にーーーーこれが決定的な背理だがーーー2相対主義=懐疑論は一切の現実論理を相対化しようとするが、原理上、現実世界が代表する「力の論理」に打ち勝つことはできない。現代思想における批判的相対主義者たちはこのことに無自覚なのである。
一切の言説の普遍性を否認することは、人間社会における「善」「正義」といった価値の根拠を否認することと一つであり、この主張の論理的運命はすべての「言葉の営み」の努力を否認すること、すなわち、現実的な「力の論理」がすべての事柄を決定する、という帰結へとゆきつく以外にはない。

※あらゆる社会思想は、相対主義=懐疑論的な言説戦略をとることで、現実主義の「力の論理」に対する本質的な対抗力を喪失する。この思想は、やがて行き場を失って形而上学的倫理学へ逃げ込み、そのことでかろうじて現実世界に対する反抗(反感)の思想に留まろうとする。原理的探求への失敗と挫折とを道学的かけ声によって糊塗すること。どれほど過激な思想を口にしていてもそれは思想の本質として「羊の浪漫主義」への陥落以外のものではない。現代の相対主義的社会批判の思想は批判の原理的根拠を確保できないために、しばしば、絶対的「他者」や「贈与」といった超越的倫理概念に最後の拠り所を見出している。

(中略)

※問題の核心は一つである。人間社会のあらゆる営みの底には「力の論理」がその強大な現実力を潜めて居座っている。
人間の「言葉の営み」の中心的な意義は、この赤裸々な「力の論理」(暴力原理)をいかに抑制するかという点にある(動物にとっては、これに対抗するどんな可能性も存在しない)。
人間の言葉の営みの本質は、赤裸々な暴力原理に対抗する集合的意志にある。
相対主義は、すべての人間と社会の営みは言葉上の約定に過ぎず、それ以上の根拠を持たないことを指摘する。
そのこと自体はおそらく正しい。しかし相対主義の思想は、この約定の体制の適切な形成にこそ、人類の歴史が払ってきた暴力原理の抑制の全努力があることを忘却している。

※哲学的思考において相対主義=懐疑論は決して消滅することがないが、その最大の理由はそれが形而上学的独断論と実証主義的客観主義という敵手、その宿り主を持つからである。
一方で、哲学的形而上学と客観主義は、哲学的理説における存在、認識、言語の謎が解明されないかぎり、すなわち「本体」の観念が解体されないかぎり、どこまでもその形式を変えて生き続ける。
この理由で、その主張の自家中毒的「ナンセンス」がいかに明確な仕方で指摘されようと、それが独断論や権威主義への対抗としての役割を担うかぎりで、相対主義=懐疑論もまた、廃絶することができない。

竹田青嗣  『欲望論』 第1巻「意味」の原理論より引用した。p242~p247

設問1

下線部1に、「この『ナンセンス』は今もなお現代思想における中心思想(分析哲学とポストモダン思想)として生き続けている」
とあるが、その理由として適当な箇所を本文中から2箇所抜き出して答えなさい。

設問2

下線部2に、「相対主義=懐疑論は一切の現実論理を相対化しようとするが、原理上、現実世界が代表する『力の論理』に打ち勝つことはできない」とあるが、
その理由として適当な箇所を本文中から抜き出して答えなさい。

設問3

筆者(竹田青嗣)が説く、現実世界が代表する「力の論理」に打ち勝つ、原理的な方法は何だと思うか。端的に答えなさい。


用語解説

【羊のロマン主義】
ニーチェの狼のロマン主義を踏まえた言葉の使い方です。
狼のロマン主義は強い意志を持った人間の達成目標であり、羊のロマン主義は、弱い人間の達成する意志の無い単なる憧れに過ぎない希望という意味です。

【帰謬法(きびゅうほう)】背理法とも言う
P を仮定すると、矛盾 ⊥ が導けることにより、P の否定 ¬P を結論付けること。
P は、【アキレスは、のろまの亀を追い越す。】という命題。
アキレスが亀のいた地点に着いたときには、すでに亀はいくらか先に行っている。
ところで、論理上、空間は無限に分割できる。それならば、アキレスが亀のいた地点に着いたときには、すでに亀はいくらか先に行っているのだから、それが無限に繰り返されて、アキレスは亀に追いつくことは永遠にできない。論理的には空間は無限に分割できると言う概念を使って、矛盾を導いて、ある命題が間違っていることを証明する方法です。
逆の方法もあります。つまり、主張したい命題の反対の事を、正しいと仮定して、矛盾を導き出すことによって、主張したい命題の正しさを証明する方法です。

【世界には決して認識されえないものあるいは「語りえないもの」が存在する】
これは、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の最後の一文「語りえないものについては沈黙しなければならない。」という格言を踏まえています。
要するに世界には、論理上、客観認識できないものがあると言うことです。

【脱臼化】
「私は明快な論旨を自ら「脱臼」させる」※参考リンク
のように用いて、「グダグダにする」「無意味なものにする」このような意味に使います。
これはポストモダンの哲学者デリダの「脱構築」の事をさしていると考えられます。

【一切の拘束から逃れつづけること】
これは哲学者浅田彰の「逃走論」を暗示しています。

【絶対的「他者」や「贈与」】
これも、レヴィナスのキーワードを示唆しています。
絶対的「他者」や「贈与」の根拠や理由は誰も検証することができないのです。

【超越的倫理概念】
形而上学的倫理概念と同義です。

【赤裸々な暴力原理】
今のミャンマーを見れば歴然ですね。

【実証主義的客観主義】
様々な科学的な知見のこと。

【言葉の営み】
言語活動の事。話す・聞く・読む・書く、全ての活動です。

出題の意図

この課題に挑むことで、難解な分析哲学とポストモダン思想に幻惑されず、かといって、迷信にも惑わされず、堂々と自信を持って、生き、考え、主張し、社会を、世界を牽引する人間になって欲しいから。

回答のお手本

設問1. 「パラドクスを発見する悦び」「 形而上学的独断論と実証主義的客観主義という敵手、その宿り主を持つ」

設問2. 一切の言説の普遍性を否認することは、人間社会における「善」「正義」といった価値の根拠を否認することと一つであり、この主張の論理的運命はすべての「言葉の営み」の努力を否認すること、すなわち、現実的な「力の論理」がすべての事柄を決定する、という帰結へとゆきつく以外にはない。

設問3. 社会という言語ゲームの中で、人間の「言葉の営み」の中心的な意義は「力の論理」(暴力原理)をいかに抑制するかという集合的意志にあることを理解し、言葉上の約定を基にする人間と社会の営みの体制の適切な形成を行うこと。

つまり、いかなる事物に対しても主義主張によって現状を批判するだけではなく、より良い体制を形成して行くために思考し、言葉の力を用い、集合的意志(共通了解)を確固たるものにし、現状を変化させていくことが、「力の論理」に打ち勝つ原理的な方法である。

参加者の回答

回答 1

設問1. パラドクスを発見する悦び。・人間の「内的自由」を求める動機

設問2. 現代思想における批判的相対主義者たちはこのことに無自覚なのである。一切の言説の普遍性を否認することは、人間社会における「善」「正義」といった価値の根拠を否認することと一つであり、この主張の論理的運命はすべての「言葉の営み」の努力を否認すること、すなわち、現実的な「力の論理」がすべての事柄を決定する、という帰結へとゆきつく以外にはない。

設問3. 「力の論理」(暴力原理)をいかに抑制するかという点では、相対主義は、すべての人間と社会の営みは言葉上の約定に過ぎず、それ以上の根拠を持たないことを指摘するため、人類の歴史が払ってきた暴力原理の抑制の全努力があることを忘却している。そのため、私たちが「力の論理」(暴力原理)に打ち勝つためにはどのような観点から見ても必ず真であるかあるいは正しい命題というものがある考え方をもつことが原理的な解決方法になる。

回答 1 書き直し

設問3. 「力の論理」(暴力原理)をいかに抑制するかという点では、相対主義は、すべての人間と社会の営みは言葉上の約定に過ぎず、それ以上の根拠を持たないことを指摘するだけで、人類の歴史が払ってきた暴力原理の抑制の全努力を忘却している。

解説

設問3. 「そのため、私たちが「力の論理」(暴力原理)に打ち勝つためにはどのような観点から見ても必ず真であるかあるいは正しい命題というものがある考え方をもつことが原理的な解決方法になる。」の箇所は相対論者になる可能性がある。なぜなら普遍的なものは存在しないと言う。だけれども、そう言うことさえも普遍的であるから。


回答 2

設問1. 自己矛盾へあからさまな無知がある・ある種の欺瞞がある

設問2. 現代思想における批判的相対主義者たちはこのことに無自覚なのである。一切の言説の普遍性を否認することは、人間社会における「善」「正義」といった価値の根拠を否認することと一つであり、この主張の論理的運命はすべての「言葉の営み」の努力を否認すること、すなわち、現実的な「力の論理」がすべての事柄を決定する、という帰結へとゆきつく以外にはない。

設問3. 言葉という道具を一切取り除いてしまえば、「力の論理」(暴力原理)には正面から「力の論理」(暴力原理)で対抗することでしか原理的には打ち勝てないと思う。

解説

設問3. ※力の論理に力で対抗することは✖️

 
回答 3

設問1. ①パラドクス(正しそうに見える前提と妥当に見える推論から受け入れがたい結論が得られること)を発見する悦び。②人間の「内的自由」を求める動機。

設問2. 一切の言説の普遍性を否認することは、人間社会における「善」「正義」といった価値の根拠を否認することと一つであり、この主張の論理的運命はすべての「言葉の営み」の努力を否認すること、すなわち、現実的な「力の論理」がすべての事柄を決定する

設問3. 力に対して批判するだけではなく、言語の意味理解を深め、言語の営みを駆使して仲間を増やすこと。

解説

設問3. 実際の会話の中で、悩んでいる人に対して投げかける言葉としては、非常にわかりやすく最適な答えである。


回答 4

設問1. ・パラドクスを発見する悦び・人間の「内的自由」を求める動機

設問2. 現代思想における批判的相対主義者たちはこのことに無自覚なのである。一切の言説の普遍性を否認することは、人間社会における「善」「正義」といった価値の根拠を否認することと一つであり、この主張の論理的運命はすべての「言葉の営み」の努力を否認すること、すなわち、現実的な「力の論理」がすべての事柄を決定する、という帰結へとゆきつく以外にはない。

設問3. 言人間の「言葉の営みの本質」が赤裸々な暴力原理に対抗する集合的意志にあることを理解し、一切の言説の普遍性を肯定する。

 
回答 4 書き直し

設問3. 人間の「言葉の営みの本質」が赤裸々な暴力原理に対抗する集合的意志にあることを理解し、言説の普遍性を追い求める。


授業中の対話

質問
最近、ミニマリストやビーガンなど、持つものや食べるものを減らす人が増えてきているように思う。彼らは「自由」を制限しているように見えるが、この人たちとミャンマーで弾圧されている人たちの状況はどう違うのか。「自由」とは何ですか?

先生の答え
ミニマリストやビーガンとミャンマーで弾圧されている人との決定的な違いは何か?
自らの意思によって行動を決めているか、誰かの命令のよってやりたいことを我慢させられているか、が全く違います。
ミニマリストやビーガンは自分の意思で自分の行動を束縛しているが、ミャンマーの人たちはそうではないです。
自分の意思で自分の行動を決める事こそ自由なのです。

ところで、自由について一言。
歴史は繰り返すとも言うが、繰り返さないものがあります。それは自由獲得の歴史です。(ヘーゲル)
不自由に対して反抗をしない、あるいは反抗できない人たちは、自由の素晴らしさを経験したことがない、つまり知らないからであると言えます。
一度、自由の価値を知った人たちは絶対に不自由には戻りたくないと思うのです。(香港の市民たちを見れば分かる)

ミャンマーのようにアウンサンスーチー政権の時代から軍事クーデターによって、歴史が逆戻りすることがあっても、自由奪還に向けて必ず歴史は進みます。
このように自由には不可逆性があるのです。