講師:居細工 豊
第四章 世界認識の一般構成
2.時間意識の本質学
*現前意識に定位する本質洞察の方法は、一切の世界認識(確信)の構成についての根本方法である。その意味を明瞭にするために、ここで、世界認識の重要な一契機である「時間」の問いを主題として取り上げることにする。時間の問いは哲学ではつねに独自の「難問」を作り出してきた。「時間」もまた世界確信の対象である限り、この難問も「本質洞察」の方法によって解明できるはずだが、それを確かめてみよう。
*ゼノンは、哲学における言語のパラドクスを、時間の謎の形で示した。つまり「飛んでいる矢はどの時点を取っても静止しており、それゆえ飛んでいない」。時間の存在を言葉で表現しようとすると、ただちに時問と運動についての独自のパラドクスが現われる。
この「時間の謎」は、現代哲学にいたるまで議論され続けてきたし、いまでも反復されている。
現代でもジョン・マクタガートによる「時問は存在しない」という論証などがあるが、古い帰謬論証の一変形にすぎず認識論上の重要性はない。
相対主義的な論理的思弁論ではなく、「時間の謎」に本格的に迫ろうとした哲学者として、アウグスティヌス、ベルクソン、フッサール、ハイデガーなどを挙げることができる。
アウグスティヌスは時間の謎を解いたわけではないが、哲学の問いとして的確な仕方でこれを整理して提示した。
すなわち、《厳密な意味では、過去、現在、未来という三つの時があるともいえない。
おそらく、厳密にはこういうべきであろう。「三つの時がある。過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在」》(アウグスティヌス 『告白』山田晶訳、p421)
まず、「今ある」と言えるのは「今」だけであって、過去と未来は「今」あるといえない。
にもかかわらずなぜわれわれは、過去や未来があるというのか? つぎに、過去や未来は「今ここに」存在しないが、にもかかわらず、われわれは任意の時間の長さを測る。
なぜ今存在しないものを測ることができるのか。また、そもそも時間が長さをもつとはどういうことか…等々
*ベルクソンは、ゼノンの「アキレスと亀のパラドクス」につぎのように反駁する(『時間と自由』)。快足で知られるアキレスの少し前に亀をおき、同時にスター卜させて競走させる。ゼノンはこの前提から、アキレスは決して亀を追い越せないことを論証する。
パラドクスの要点は、アキレスが亀を追い抜くには〝有限の時間のうちに無限の点を通過せねばならず、それは不可能〟という点にある。 ベルクソンによれば、このバラドクスは、時間の存在を空間的な表象で考えることから生じる錯誤にほかならない。一般にわれわれは、時間的な存在を空間的なもの(たとえば一方向に延びた紐)として表象するが、これが時間のパラドクスが現われる根本の理由であると。
時間の空間的表象を批判しつつ、彼は、時問の本質をわれわれの内的感覚における「質的なものの持続」であると説き、これを「純粋持続」と名づける。べルクソンの直観、つまり時問の本質は量としてではなく感覚における「質」として把握されるべきという直観には大きな理があり、時間論における大きな前進と認めることができる。だが、その後の展開は、形而上学的な「創造的進化」の観念に結びつけられて、時間のパラドクスを認識論的に解明しているとはいえない。
*ゼノンの時間のパラドクスについてひとこと触れておくと、これは、現象学の「本質観取の方法で「無限」「有限」といった概念の本質を洞察することによって、容易に解くことができる。
ゼノンは、無限と有限の概念を、無限>(大なり)有限という量的な像として示すことで、「有限の時間のうちに無限の点を通過できない」という、いわば集合論的なパラドクスを作り出している。
だが、「無限」や「有限」という言葉は概念として本質的な多義性をもっており、観点の変更によって、逆に、無限≺有限(あるいは無限⊂有限)という関係も成立する。
たとえば誰でも有限の円の中に無限の点を打つことができる。
すなわち、有限の時間のうちに無限の点を通過することが不可能だという論理はそれが、時間と距離を空間的な量として示す騙し(だま)絵になっているからにすぎない。
ただしこのことの指摘は、まだ相対論理の相対化であって時間の「謎」の解明ではない。
*時間の存在問題(つまりその存在審級)について重要な洞察を示したのは『存在と時間』におけるハイデガーである。
ハイデガーの時間論の功績をひとことで言えば、人間存在を、被投性―現在―企投という実存の構造として分析し、この実存の構造こそが、現前、過去、未来という時間形式を必然的なものとしているということを指摘した点にある。
つまり、客観的な時間性をいったん実存的時間性に還元し、そこから両者のいわば存在論的差異(=存在審級の差異)を指摘したのである。
退屈しているときには時間の流れは遅く、何かに熱中しているとき時間が早く過ぎることは誰でも知っている。
この時問経験は、客観的な時間と実存的な時間の本質的な「ズレ」を示している。
ハイデガーによれば、人は客観的な時間の中を生きている(これが客観的表象)のではない。
たえず新しい可能性をめがける実存という存在構造が、人間の世界に、これまで、いま、これから、という時問性の秩序を与えているのである。
ハイデガーの実存論的洞察は、遠隔知覚をもつ生き物において、対象との「隔たり」と 身体の「能う(あた)」の相関性として世界の時間性が分節される、という欲望論的洞察とほぼ重なる。
しかし、ハイデガーの実存論は明らかに本質観取の方法から開始されながら、その底に「存在」についての形而上学的動機を隠しており、そのため彼の時間論は、「頽落(たいらく)した時間」と「本来的時間」の区別という形而上学的「物語」へと結びつけられる。
そのことで彼の実存的時間論は、その決定的な意義を自ら覆い隠す結果になっている。
*フッサールの時間論はどうだろうか(『内的時間意識の現象学』)。
ここでは、厳密に本質観取の方法がとられている。音楽を聴くことで、われわれはその流れゆくメロディを「生き生きした今(現在)」として感受するが、フッサールは、この「生き生きした今」の確信がいかに構成されるかを内省的な本質観取によって把握しようとする。やや長くなるが引用しよう。
《持続する客観の《産出》が始まる《源泉点》が根元的印象である。
根元的印象の意識は恒常的な変移の中で概念的に捉えられているのであり、有体的な音の今(すなわち意識に則した、意識《内の》)は絶えず既在へ変移し、次々に新しい音の今が変様された音の今と絶えず交代している。
しかし音の今の意識が、根元的印象が過去把持へ移行するにしても、この過去把持それ自身がこれまた一つの今であり、顕在的に現存するものである。
(中略)音が鳴り始め、《それ》が絶え間なく鳴りつづける。
音の今は音の既在へ変移し、印象的意識は絶え間なく流れつつ次々に新しい過去把持的意識へ移行する。
流れに沿い、流れに同行することによって、われわれは起点〔=根本的印象〕に帰属する一連の不断の過去把持を所有する。だがそれだけではなくこの系列の、以前の各時点が過去把持という意味ではそれぞれ一個の今として再び射映」しているのである》(フッサール『内的時時間意識の現象学』-立松弘孝訳、P40)。
フッサールの議論はひどく煩雑なので、ここでも大きくパラフレーズしてみよう。
まず「内的時間意識の現象学」とは、文字通り、時間意識が現前意識においてどのような条件で構成されるのか、についての本質観取である。
ここでは、音楽(あるいはメロディ)という時間的対象の知覚体験が、そのモデルとしておかれる。
リンゴや机や樹木の知覚体験は、ふつう静止した「個物の知覚―認識である。
こうした個物の存在確信の成立は、現象学では「ノエシスーノエマ」、すなわち「現に意識に現出する諸要素、顕在性、地平性、射映的な知覚像」→「それらの統合としての対象意味 (の確信)」という構成の構造として把握される。
だが、時間的な対象性をもつ事物(事象)では、この構造はより複雑になる。
時間的対象ついての構成の問いは重要な意味をもっている。
世の中にはさまざまな時間的対象(運動、変化するもの)が存在するし、なにより、個々の個物ではなく、たとえば一つの作業、一連の会話、一つの講義といったことがらー事象の「経験」はすべて時間的な対象だからである。
それゆえ、時間的対象の確信形成の本質構造を明らかにすることは、人文領域の本質学にとって重要な意義をもつのである。
*時間意識についてのフッサールの議論の要点は、以下である。
音楽を聴くという体験意識を内省すると、メロディの「生き生きした今」はどのような条件で可能となっているといえるか。
ここでは、「源泉点としての今」「過去把持(はじ)」(未来把持もあり)、が基本用語である。
まずメロディを聴く体験において新しい「源泉点-今」がつぎつぎに現れるがそれはただ現われて消えてゆくのではない。「今」の時点に、いわば過ぎ去ったばかりの非今の契機、つまり、「過去把持」が絶えずフィードバックされて立ち戻ってくる。
そこに生じる「源泉点-今」といわば“直後記憶”としての「過去把持」の重なり合い(綜合)が「生き生きした今」を構成しているといえる。
もしそうでなければ、われわれの聴く「今」は、「源泉点-今」つまり瞬間的な「音」の断片的連続にすぎなくなり、「生き生きした今」は生じえない(フッサールは直近的未来としての「未来把持」の要素についても語るが、ここでは重要ではない)。
とくにむずかしいことは言われていない。
たとえば、いま目の前のリンゴをみてすぐに目を閉じると、必ずその「残像」が瞼の裏に残る。
つまり、われわれの「具体的な今」は瞬時の「今」ではなくいわば「今」とその「残像」としての「過去把持」の重なり合いとして現れている。
つまり、人間の現在知覚には本質的に直後記憶の契機が織り込まれている、といえる。
これを「ノエシスーノエマ」の構造に置き換えて表現することができる。
時間的な対象の体験においては、ノエシスは、「源泉点―今」「過去把持」「未来把持」という諸契機であり、ノエマは、その統一としての「生き生きしたメロディの今」となる。
*さて、私はフッサールのこの時間論を基礎として、これを欲望論的な本質洞察に変換しようと思うが、その前に、ジャック・デリダのよく知られたフッサールの時間論批判があるので、これについて触れておこう。
『声と現象』においてジャック・デリダがフッサールの時間論を批判したこと、それが彼の「脱構築」の思想の出発点となったことはよく知られている。
デリダの批判の要点はフッサールがここで想定する「根源的今」なるものはそもそも存在しない、という相対主義的論証にある。
《今と非—今の、知覚と非–知覚のそうした連続性を認める以上、Augenblick(瞬間)の 自己同一性の他者(オートル)を、つまり瞬間の瞬きの中に非―現前性と非明証性を迎え入れることになる。瞬きの一瞬の持続がある。
そして、それによって目が閉じられるのである。その他性(アルテリテ)は、あらゆる分離がそこに生じるのに先立つ、現前性の、現前化の、したがってVorstellung(表象)一般の条件ですらある。
(中略)それは、単一性における自己同一性のあらゆる可能性を、根底から打ち砕いてしまう》(デリダ『声と現象』林好雄訳' P144)。
デリダがいうのはこうだ。
フッサールは「根源点としての今」(源泉的今)に「過去把持」が入り込んで「生き生きとした今」を可能にしていると主張する。
しかし、これを追いつめると、むしろ「根源的な今」それ自体というものが存在しないといえる。
われわれは、「生き生きとした今」とは、「根源的な今」と「非今」との重なり合いではなく、むしろ、「これから現われる今」と「今ではなくなったもの」の間の無限の「差異の運動」というべきではないか。
言いかえれば、最も根源的なものとは「根源的な今」 なのではなく、根源的な「差異の運動」それ自体というべきであると。
*「根源的な今」なるものがそもそも存在しえないというデリダの論証も、ひどく煩瑣(はんさ)である。しかし、われわれはすでにゴルギアスの「不一致」の議論をくわしく見たので、それがゴルギアスの帰謬論的反証の現代版にすぎないことが容易に理解される。その要点は以下である。
時間の流れは一本のヒモとして表象される。このヒモを切断してみるとどうなるか。時間は過去と未来の部分に分かれ、「今」は消えてどこにも存在しなくなる。では「生き生きとした今」をどういえばいいのか。「根源的な今」は存在しない、それはいわば過去と 未来の間のたえざる運動性(差延)それ自身というほかない
この論証は、単純な帰謬論法よりは手が込んでいる。つまり一本のヒモを切れば、時間の「今」の存在はなくなる、というだけならよくある帰謬論だが、ここではその像に、それゆえ「生き生きした今」は、ある「点」ではなく一つの「運動性」とみなすべきである、をつけ加えているからだ。「今」とは運動性である、は巧みな比喩といえるが、しかし、ゼノンの論証をみればとくに目新しいものではない。
デリダによるフッサール時間論の批判には、大きな動機がある。フッサールの「根源的今」は、現象学における厳密な認識の基礎づけの根拠となる概念であり、それゆえこの概念の不可能性を論証することで、普遍認識をめがける現象学の試み自体を破産させることができる。
そのために、相対主義的な帰謬論によって、「根源的今」の不可能性の論証が必要とされているのである。
だが、ここでデリダの誤謬は二重である。
第一にフッサール現象学を厳密認識主義の主張とみなす点で間違っている(一切の認識を確信とみなすという現象学の根本のアイデアを理解していない)。
第二に、相対主義的反証によっては、独断論=形而上学の本質的な批判とはならないことを理解していない。
現象学の確信構成のアイデアを古い帰謬論で批判することは全く不可能なのである。
3.「生き生きとした今」の構成
*さて、ここでわれわれはデリダの相対主義批判を離れ、時間的存在対象についての現象学的本質観取をさらに推し進めて、欲望論的「本質洞察」を遂行してみよう。
まず、「本質洞察」の観点から「過去」や「未来」というものがどう理解されるかについて、詳しい論証は抜きに述べておこう。
本質洞察は、すべての世界確信を内的体験としての「現前意識」に還元する。
そこで「過去」や「未来」といった時間意識の確信がどのような条件で成立しているかを把握するのである。
すると以下になる。
現前意識に現われる「想起」(受動的、能動的)がたしかに自分の体験の記憶であるという確信を反復的に伴う場合、われわれはそれを自分の「過去」とみなす。
これに対して「未来」とは、ある想像(能動的)が、自分に生じうる可能な経験として思い描かれている場合である。
自己に生じうる経験とは無関係であるような想像は、「未来」という措定をうけず、単なる「空想」にすぎない。
つまり、現前意識的洞察からは、「過去」や「未来」は、「今」の意識に現われ出る「想像」や「想起」が自己に関係づけられて把握される場合の意識形態にほかならない。
さらに自分がそうあったこと、そうありうることについての表象的な確信が、間主観的に客体化されて、「過去→今→未来」という一般的な世界表象が構成されるのである。
ゼノンやデリダの時間論は、じつはこの客体化された時間表象を暗黙の前提として、そこから帰謬論的なパラドクスを作り出しているにすぎない。
こうした議論から時間性の本質が把握されることは決してないし、そのパラドクスの本質も解明されえない。
*われわれがフッサールの「純粋意識」に定位する本質観取の方法を、「現前意識」に定位する「本質洞察」へと位相変様する最大の理由は、フッサールの「本質観取」の方法では、世界の「価値-意味」的な構成を把握できないという点にある。
音楽体験が喚起するメロディの「生き生きとした今」の構成の構造を、現前意識に定位して本質洞察すれば、フッサールによる「源泉点としての今」、「過去把持」という基礎概念は、「持続的顕在」、「情動継起」「情動累積」という三契機へと変換される。それぞれ を記述しよう。
(1)「持続的顕在」『欲望論では「判然的現前」としたが、ここでは以下の理由で変更)。
*机やリンゴなど個的な事物対象の確信条件は、現象学では、知覚像の所与とその連続的調和という二契機として示される。
つまり、顕在的な(ありありとした)像が地平性(地と図)と射映性(しゃえいせい)をそなえて所与されること、そこから「対象意味」が調和的に持続的に成立すること。この条件が満たされると、われわれはその対象を客観的な現実存在として疑えなくなるこの不可擬性の構造は、経験的事実であって思弁的なものではない。
だが、音楽(メロディ)という対象は、時間の中で自らを構成する独自の対象である(風景や言語の理解なども同じ構造をもつ)。ここでは、個的な対象におけるありありとした知覚像は、固定的な像ではなく、ありあり(顕在的)としてはいるがたえず新しい像に変化してゆく知覚像である。
時間的対象における知覚像のこうした契機を、「持続的顕在」と呼ぼう。つまり、時間的対象の確信構成の第一の条件は「持続的顕在」である。
(2)「情動継起」
*音楽(メロディ)を聴く体験が、単なる個的対象の知覚体験と異なる点は二つある。
一つはそれが時間的に自身を構成する対象であること。
つぎにそれがエロス的対象として現出するということだ。
たとえば「机」を見るという体験は、机の「知覚像」とその一般意味(机、家具など)を与えてくる。
しかし音楽の場合、それは知覚(音響)とともに「情動」を所与(喚起)する。
ここでは音の響きは「対象意味(ノエマ)」(音楽・旋律)を構成するだけでなく、対象のエロス性(価値-意味)を、たとえば清々(すがすが)しい、勇壮だ、凛々(りり)しいといった情動、情感性を喚起する。
音楽体験では、対象は、対象の一般意味としてだけでなく、一つのエロス的(価値的)対象として自らを構成する。
さらに進もう。
ここでは、流れてゆく一つ一つのメロディは、私にそのつど何らかの情緒性を喚起する。
すなわち、たえず新しい情緒性の持続的な継起として、連続的調和を作り出してゆく。
ここで「対象意味」(ノエマ)つまりその「何であるか」は、「音楽」「旋律」あるいは「ショパンのノクターン」である、という対象の一般意味である以上に、むしろそれが喚起する音楽的情緒性-感興性それ自体である。
また、音楽という対象は、知覚の「持続的顕在」によってその「対象意味」を与えるだけではなく、それが喚起する情緒性によって、私に聴き続けることを促すという本質性格を示す。
つまりそれは単なる事物対象ではなく、エロス的、美的対象としてその「対象価値—意味」(ノエシス)を構成するのである。
*こうしてわれわれは対象の体験一般の本質構造の洞察を、一歩推し進めることになる。
すなわち、一本の樹木の知覚は、私に特別の動機がなければ単なる「樹木」という意味しか与えない。
しかしそれが美しい桜の花を咲かせていれば、私の情動を喚起して、エロス的対象(ある場合には欲望の対象—枝を持ち帰りたい)として現われる。
つまり一切の対象は、私の動機・関心に相関して、「一般対象意味」としてだけでなく、エロス性を帯びた「価値的対象意味」としても現出する。
(3)「情動累積」
*「情動継起」は、音楽体験において典型的に見出せる現前意識の本質契機である。それは、たとえば一つ一つの波の到来が幾重にも続くのを見る場合や、滝の水のたえざる落下を見るときに与えられる情動の継起のありように似ている。しかし音楽と滝の水の体験では大きな違いがある。それを「情動累積」の概念で示すことができる。
滝の水の落下を見続ける体験では、たしかにつぎつぎに新しい感覚の情動継起が生じているが、滝の落下をしばらく見続けていると、この情動継起の持続はある単調な情感性に収束してくる。
しかし音楽の体験ではそうではない。
音楽を聴く体験において重要なのは、一つ一つのメロディがつぎつぎに新しい情動−情感を喚起しつつ継起してゆくが、それは単調な情感性に収束してゆくことなく、新しい情感がそれ以前の情感に折り重なって、たえず新しい情感―情緒を生み出してゆくという点である。
このことは、単調なブザーの音の持続が与える感覚と、メロディを聴く場合の「生き生きした今」が与える情感の違いを比べるとすぐに理解できる。
個々のメロディはそのつど喚起する情感だけでなく、それまで継起的に生み出されてきた情感と重なりあって、いわば累積的な綜合としての新しい情緒性をたえず生み出し続けるのである。
交響曲の最後のコーダでは、そこまでに紡がれた楽曲のすべての情感性が、凝縮された綜合として享受されることを誰でも知っている。
音楽の進行は、個々のメロディやハーモニーが紡ぎ出す情感の累積として、楽曲の情緒の総体的な豊かさをたえず高めてゆくという仕方で進むのである。
*さて、いま試みた音楽体験についての本質洞察は、時間的な対象(またエロス的な対象)一般についての「対象意味」(ノエマ)の構成の本質条件を明らかにする。
たとえば、言語を聴く(読む)体験は典型的に時間的対象として構成されるが、そこでは、ちょうど個々のメロディが情感を積み重ねるように、個々の語−句がその単位的「意味」を継起的に積み重ね、一定の区切りまで来ると累積的に綜合された「意味性」を確定してゆく、という仕方で意味了解が進んでゆく。
つまりそれが、言語体験における「生き生きとした意味性」の了解の本質構造である。
こうした「生き生きとした今」の体験の本質は、「今」、「非今」「運動」といった形式論理による悟性的分析では、けっして把握されえない。
もう一つ重要なのは、エロス的(価値的)対象の体験の場合である。
空腹の人間にとって机の上のリンゴは、果物という一般意味(客体化された意味)をもつ単なる景物ではない。
一つのリンゴは、私の「食べたい」という欲望に相関して「美味しそうなリンゴ」という対象価値性を構成する。
音楽を聴くという体験は、言語体験のような時間的対象性と、「食べたいリンゴ」という価値的エロス的対象性とを兼ね備えた仕方で、われわれの「現前意識」のうちで構成されるのである。
*総括しよう。
私はここで、音楽体験を一つの範例として、世界確信の一般構成についての本質洞察を遂行した。
この体験の本質洞察の意義は、それが単なる個的対象の確信構成についての解明ではなく、われわれの日常生活におけるさまざまな具体的経験、たとえば講義を受けること、一つの仕事を行なうこと、また大学生活の経験といったより長期の時間的「経験」についての確信構成のモデルの範例となるという点にある。
さらに重要なのは、それが対象や事象の「一般意味」についての確信を超えて、エロス的価値的経験の範例ともなるという点である。
つまり、音楽体験の本質洞察は、われわれの「日常世界」における一切の自明性(ヴォルフガング・ブランケンブルク)の確信構成についてのプロトタイプとなる。
*「日常世界」の上位をなす公共世界や文化・理念的世界についてはどうか。ここでは一つだけ分かりやすい範例を置こう。
誰でも、教育過程を経たかぎりで「数学の世界」をもち、それを他者と普遍的に共有している。
だが「数学の世界」もその確信構成の条件をもっている。
たとえば「6×6=」を何度表象しても「42」がその答えとして反復的に現前意識に到来するかぎり、私は「数学の世界」の現実性を疑わない。
しかし何らかの理由で、この問いに対して「同一」の答えが到来しないとき、私の内的世界から「数学の世界」は喪失される。
公共世界や文化・理念的世界は、どんな種類のものであれ、私の観念的想起においてその「同一性」が反復的に現われなくなれば、その「世界」の一部は私から消失する。
このことで、誰にとってもその「世界確信」の全体が、つねに、ひとえに、各自の「現前意識」における諸契機の所与のありようにかかっていることを理解できる。


宿題
あなたの日常生活における長期の時間的経験(例えば、講義を受けること、一つの仕事を行うこと、また大学生活の経験など)を取り上げて、世界確信の一般構成についての本質洞察を遂行せよ。ただし、単なる個的対象の確信構成との違いを明確にすること。
回答のお手本 1
洞察対象となる時間的経験:散歩
川辺の公園を散歩をするとき、川や木はいつも通りそこに存在する。(持続的顕在)川辺を歩いていると、川を取り巻く景色は常に変化する。水面に映る木々や川辺を餌場にする鳥たちを見て「朗らかでいいなぁ〜」と思ったり、逆に「ゴミがたくさん浮いているなぁ〜」と思ったり、次々と目に映る情景から感情や考えが湧き上がる。(情動継起)
長年、同じ川辺の公園を散歩していると、晴れの日には「水面が太陽光を反射してキラキラ輝いていていいなぁ〜」と思い、春には「桜がキレイに咲いたなぁ」と思う。
そこにはただの「川」と「木」がいつも通りに存在しているだけなのに、その公園の中で私が過ごした日々やそこでの経験が少しずつ積み重なって、また新しい「いいなぁ〜」の気持ちを見つけることができる。(情動累積)
しかし、通勤・通学のような移動手段としての「徒歩」の場合は、「川」や「木」があったとしても動機や関心の強度が異なるため、散歩中のような彩り豊かな情動-情感を喚起することはなく、単調な情感性に収束していく。
このことから、「散歩」はエロス的価値-意味を伴う時間的経験として私の現前意識の内で構成されているといえるだろう。
回答のお手本 2
私は、家庭菜園でにんじんを育てている。
にんじんは、芽が出たら8割成功と言われるぐらい、芽出しが難しい野菜だ。
種子を一晩水に漬けて、種蒔きし、芽が出るまで、水やりを欠かさず、今か今かと気を揉んで十日ほど過ごす。 青々として元気な芽がいっぱい出ると嬉しい(情動継起)ものだ。
芽が、双葉からだんだん三つ葉、四つ葉と成長してゆく(持続的顕在)とさらに嬉しい。
それと同時に、ちょっと育ったにんじんの苗を見ながら、有機肥料が効いているかとか、間引きをいつするかとか、絶えずワクワクとソワソワの情感-情緒を生み出してゆく。(情動累積)
だが、にんじんに似た葉の雑草を発見した瞬間は、にんじんと同様の持続的顕在や情動累積はなく、単なる個的対象の確信構成でしかない。
もちろん、すぐに、嫌なやつ!すぐに引き抜いてやろうと考えた途端に持続的顕在や情動累積が私の現前意識に構成される。
にんじんの種まきとその成長は、時間的対象性と価値的エロス的対象性を常に兼ね備えた仕方で私の現前意識の内で構成されるのである。(441字)
参加者の回答
『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著)を教材として授業を行なった。
4月半ばから5月末までおよそ1か月半にわたり10数時間をかけての授業過程で、生徒たちは互いの気づきや感想を共有し疑問点を出し合う(=持続的顕在)。
疑問点を中心に問いを立て、それらの問いについてグループごとに資料を調べ探究する過程は、新たな知識や考え方に気づくきっかけとなる(=情動継起)。
問いへの解答をまとめて発表し、他グループからの感想や質問を受ける過程を通じて、また新たな気づきや感想、疑問点を得る(=情動累積)。
このような彼らの学びは、互いの気づきを出し合う中でたえず新たな問いを手にする点、グループで問いを探究するという形で学びを深める点、探究の結果を発表し合うことでそれ以前の気づきに新たな気づきを加えていく点、これら3点の特徴を持つため単なる個的対象の確信構成とは異なる。(381)
私はよく西宮から尼崎に住んでいる友人の家によく遊びに行っていた(持続的顕在)。
原動機付自転車で行く道のりはとても長く感じる。
友人と会う(快)との「隔たり」(不快・衝迫)があるからだ。
しかし、帰り道は、いつも驚くほどあっという間に感じる。
楽しかった思い出の数々の残像が身体に流れ(情動継起)「生き生きした今」が心の中に生まれる(情動累積)。
行き帰りの距離や所要時間に差異はない(個的対象の確信構成)。しかし、時間的経験は、その都度の状況(欲望相関的)によって私たちの意識に現れるあり様が違ってくる。
「世界確信」の全体が、つねに、ひとえに、各自の「現前意識」における諸契機の所与のありようにかかっていることを理解できる。
日常生活における長期の時間的経験として、家族を例に挙げ、世界確信の一般構成における本質洞察を試みる。
我々は、親や子供、配偶者を自分の家族だと普段信じて疑わない。これは家族という認識が時間的対象として確信されるためであり、以下の確信構成の条件を満たすことからも理解できる。
1. 家族の生活や状態は日々変化し、固定された像ではないが、常に顕在的である。(持続的顕在)
2. 家族と暮らす毎日は、実に様々な情動を想起させる。家族は我々にとって常にエロス的な対象であると言える。(情動継起)
3. 家族との長期的な生活を通して、継続的な情動継起が深い愛情や信頼関係を育むことは疑いようがない。(情動累積)
このように我々は単なる個的対象の知覚体験としてではなく、時間的な経験として家族に対する認識や確信に至るのである。/349文字
本質洞察の意義は、それが単なる個的対象の確信構成についての解明ではなく、われわれの日常生活におけるさまざまな具体的経験、一つの仕事を行なうこと、より長期の時間的「経験」についての確信構成のモデルの範例となるという点にある。
さらに重要なのは、それが対象や事象の「一般意味」についての確信を超えて、エロス的価値的経験の範例ともなるという点である。
つまり、本質洞察は、われわれの「日常世界」における一切の自明性(ヴォルフガング・ブランケンブルク)の確信構成についてのプロトタイプとなる。
公共世界や文化・理念的世界は、どんな種類のものであれ、私の観念的想起においてその「同一性」が反復的に現われなくなれば、その「世界」の一部は私から消失する。このことで、誰にとってもその「世界確信」の全体が、つねに、ひとえに、各自の「現前意識」における諸契機の所与のありようにかかっていることを理解できる。
「大人のマナビー」について本質洞察を行ってみたい。2020年から始まった「大人のマナビー」はコロナ禍で開催する「哲学の勉強会」。つまり大人が哲学(言語)について「あーだ、こーだ」という場であると妻は言っていた。しかし時間が経つと、勉強会に出入りする人が哲学を通して、実社会に活かす方法を身につけたり、社会との接点であったりと参加者が「大人のマナビー」に意味や価値を見出すことのできる場になってきた。私は大人のマナビーで言語ゲームを通した学びや繋がり、自身の成長にエロス的な価値を感じる体験の場であると認識している。(264文字)
哲学の勉強会への参加は、私が長く続けていることの一つだ。初回はほとんどの人と初対面だったため、まだ今のように感情が大きく動くようなことはなかった。しかし回を重ねるごとに、この場の意味が少しずつ自分の中で変化していった。(持続的顕在) 2回目、3回目と参加していくと「あのとき笑ってくれて嬉しかったな」とか「あの人は前にこう言ってたな」といった記憶が、会話の中でよみがえる。最初は何も感じなかったのに、その場や人に対して、自然と感情が動くようになっていた。(情動継起) そうした感情の積み重ねのうちに、いつのまにか「またあの人に会えるかな」「前回の話の続きをしてみたいな」と思いながら勉強会に向かうという流れが、自分の中で当たり前になっていた。(情動累積) 一見すれば月1回の集まりにすぎないかもしれない。でも私にとっては、そうした情動が少しずつ積み重なることで、すごく特別な意味を持つようになった。 これは単なる「対象の確信」ではなく、人との関わりや時間を通して育まれてきたエロス的価値的な経験だ。この勉強会は私にとって、他者との関係性のぬくもりが感じられる「生活世界」の確信を構成する一要素となっている。 (AIの力を借りました)