東大阪の学び場|マナビー

第8回 哲学のマナビー

講師:居細工 豊

キーワード
有限な生と「非知」
・エロスを味わう

次の文章を読んで、後の設問に答えよ。


『ベルリン、天使の詩』という映画で、天上にいた天使が人間に恋をします。

彼は恋人に出会うため、天使の特権を捨てて地上に落ちてくる。
天使は地上に落ちた瞬間、物に当たって自分の身体から一筋の赤い血が流れるのを見ます。
この瞬間、それまでモノクロで描かれていた画面がカラーになるのです。
この画面の変化がとても印象的です。

天使は永遠の命と、全てを見通す万能の知を持つ存在です。
彼は地上に落ちた瞬間からその力を失う。
彼は有限な生と「非知」の中に閉じ込められる。
しかし、まさしくそのことが彼に世界のエロス性を与えるのです。

彼は全てを知っている世界から、自由な欲望とそれを選ぶ生を得る。
この有限な生と「非知」とが、突然、世界を知り尽されたものから非知のものへ、つまり欲望されるものへ、欲望によって色めき立つ対象へと変える。
そのことが、モノクロで描かれていた画面が一瞬鮮やかに色付けられた世界に変容することで示されます。
まさしくここに、①人間の欲望というものの本質がよく告げられています。

もし、一切が神の摂理によって、あるいは宇宙の摂理によって決定されていたとしたら、自分のとる行動、自分がこれを求めるというのは全部初めから決定されていることになる。
全てが必然だったとしたら、人間の生きる意味は何だろうか。
そういう問題がよく小説などに出てきます。
しかし、人間は欲望存在であり、欲望の由来は原理的に分析も解明もできないのです。

欲望のこのような本質こそが、人間に自由な生の本質を与えているのであって、
その他のどんな超越的な原理が人間の生の本質を与えているわけでもありません。
また欲望のこの本性が、人間の生に自由の意味を与えるので、
「生の意味」とはどんな超越的原理によって与えられるものでもないのです。

欲望があるということは、なぜか知らないけれど、あれが欲しいということです。
これがエロスの根源です。
なぜか知らないけれどあれが欲しいという力が、
人間に「存在可能」を与える。
今日も明日も生きる、そういった存在可能を促している根源なのです。
「あれが欲しい」とか「これがしたい」といった欲望が全然出てこなかったら、人間は生きることの希望も力も失ってしまいます。

精神病者の中には、そういう欲望がほとんどなくなってしまっている人がいます。
こういう人は現実の認知ができる、これは他人であるとか、これは医者であるとか、相手の言っている意味は分かるのです。しかし、自分がどうしたいのか、あることをしてどうなるのかという意味がわ分からない。
つまり「存在可能」を持てず、そのため生に意味を見いだすことができないのです。
このことは、「意味」というものが言葉や記号によって出てくるのではなく、
根源的には欲望、つまり「存在可能」からもたらされるものだということをよく教えています。

人間は、欲望によって、「存在可能」によって生きています。
明日は楽しいデートだとかもう少し給料が上がるとか、
そういう可能性で生きているわけです。
そして、その意味は次のようなことです。

②人間の欲望の目標は彼がたまたま生まれ落ちた社会の大きなルールの中で形成されます 。

しかし、「生きること」の本質はこの目標に達すること自体にはない。
そうではなくて、人間が有限な生と「非知」の中に閉じ込められ、
そのことで世界の様々な対象にエロスを感じ、ある目標を立て、これを得る努力によってそのエロスを「味わうこと」、
また永遠や無限というエロスに憧れること、そのこと自体の中にあるということです。

しかし、このエロスは奥の深いものです。
単なる感性的なエロスや肉体的な快楽が、人間の欲望の対象の全てではありません。
単なる感性的エロスはむしろゲームのエロスとしていちばん小さなアイテムです。
それはちょうど、将棋の初心者が相手の駒を取ることだけしか考えないようなものです。
人間のエロスはゲーム的なものです。

だからゲームのルールを変えることでエロスがより深いものになっていく原理を持っている。
このことは、エロスというものがもっと深く考える価値のあるものだということを教えています。

『「自分」を生きるための思想入門』竹田青嗣p86~p89より引用

設問1

傍線部1の「人間の欲望というものの本質」とは何か。本文中から10字以内で抜き出せ。

設問2

傍線部2「人間の欲望の目標は彼がたまたま生まれ落ちた社会の大きなルールの中で形成されます」と竹田青嗣は言っている。
この意味を、自分の経験を踏まえて簡潔に説明せよ。
また、この知見で学んだこと、あるいは、悩んでいる人に教えたいことを述べよ。

ヒントでピンと

「超越的な原理」とは、人知を超えた絶対的な存在のことです。
例えば、キリスト教の神のような存在です。

「存在可能」は、欲望を客観的に表現したものだと考えればいいです。

有限な生と「非知」が「○○したい」(自由)の源泉でありながら、
たまたま生まれ落ちた社会のルールに縛られる。
この矛盾を解決したら、人間の自由の本質が定義出来る。
ちなみに、人間にとって最大の価値は自由です。
もし自分に自由がなかったらと考えてみてください。
いかに不幸であるかよくわかるはずです。
我々人間の歴史は、すべて、自由獲得の歴史であり、その過程は不可逆的です。
香港などを見ているとよくわかると思います。
これはヘーゲル哲学の歴史観です。

出題の意図

人間関係上のトラブルを心理学的なアプローチではなく、
哲学的なアプローチによって解決できることを示すこと。

回答のお手本

設問1. 有限な生と「非知」

設問2. 私は、裕福かつスポーツが盛んな日本にたまたま生まれ落ちた。
父親の影響で、小中高とゴルフに打ち込んでいたため、
当時の私の欲望は、「試合で優勝したい」「試合で予選通過したい」などであり、
それらに向かって努力をしていた。
このような人間の欲望は、国の経済力や文化に左右されるため、
たまたま生まれ落ちた社会の大きなルールの中で形成されるものである。

私は、先述した私の欲望に対して、
自分の好きなゴルフに打ち込める期間は学生の間だけであるという有限性と、
自分がゴルフでどこまでやれるのかという「非知」の中に閉じ込められていることによって、
目標に向かって努力し、エロスを味わうことができた。

このことを抽象化することで、
「生きること」の本質は、有限な生と、「非知」の中に閉じ込められ、
エロスを味わうことであるということが理解できる。

私は、自己評価が低い人や、諦めが早い人に対して、
この世には、永遠の命と、全てを見通す万能の知を持つ天使が存在していないことを教え、
自分の可能性を信じ、目標に向かって努力することの重要性を伝えたい。

参加者の回答

回答 1

設問1. 有限な生と「非知」

設問2. 私は、小学生の頃、7人兄弟の末の三つ子であることが恥ずかしく、
兄弟が少ないみんなのことを羨ましく思っていた。

もし、私が、一人の女性の平均出産数が6人のソマリアで、
もしくは犬の子として生まれていたならば(笑)、
自分の境遇を恥ずかしいと思うことも、他の子を羨むこともなかっただろう。
人間の悩みや欲望は、自分がいる社会の枠組みから生まれているのだ。

似たような幾つかの経験を通して学んだことがある。
私が認知する「社会」には「私」が反映されているのだ。

幼かった私は「みんなと同じ」を志向し、普通であることを望んだ。
大人になってから何度も言われた、
「お父さん、お母さんすごいねえ」という言葉をかけてくれる人は、たくさんいただろうと思う。
しかし、当時の私の頭には、「お父さんエッチやな」
と言った駄菓子屋のおばちゃんの言葉とニヤリとした表情だけが焼きついていた。

大人になった私が、幼い頃とは全く別の視点で、
自分の境遇を捉えるようになった時、
周囲の人間も同じように兄弟の数に敬意を示してくれるようになった。
「お父さんエッチやな」と言われて、傷つくような私は、もうどこにもいない。

私は何かを欲し、経験し、知ることを繰り返しながら、
私の中にある社会を少しずつ作り変えてきた。
私が変われば、これまで自分が捉えていた社会は変容する。
私たちは、自身の成熟を通して、エロスを味わうことができるのだ。


回答 2

設問1. 「存在可能」

設問2. 小学生の頃、周りには竹馬ができる友達ばかりいて、
いつも休み時間には錆が少なく、足場が高めの竹馬の取り合いだった。
自分もその輪の中に入りたくて、親に頼んで竹馬をトイザらスで買ってもらって練習し、
なんとかその輪に入ることができた。

しかし、この頃竹馬を買ってもらって練習して乗れるようになったからと言って僕は今、
「竹馬のエキスパート、もしくは運動バリバリのスポーツマンですか?」と聞かれると答えはNOで、
スーパーでレジ打ちをしている毎日グータラのただの大学生である。

だから、目の前のことに悩んで、それを解消したい、何かができるようになりたいという欲望は、
「生きること」の全てではなく生きている中でたまたま見上げて見つけた飛行機雲のようなもので、
いつか消えて無くなるから気にせずどうぞと伝えたい。


回答 3

設問1. 有限な生と「非知」

設問2. 私はこれまで他人から疑問に思われ事が多かった。
私は中学時代、ゴルフ漬けで1度も友達と遊びに行くことが出来なかった。
私はそれを自分が変わっているだとか、自分が可哀想だと思ったことがなかった。
なぜならその界隈では、特に珍しいことではなかったからである。
しかし高校に入学して、中学時代の話をしている時に友達から
「え、可哀想〜」だとか「遊びたくなかったの??」などと言われた。
皆は普通、休みの日は仲のいい友達とUSJに行ったり、
タピオカを飲んだりすることが特に変わった事でもないし、それをしたいと思っていらしい。
逆に私は遊びに行きたかったわけでもなかったし逆に練習がしたかった。

そこで私は初めて自分は普通の人とは違う生活をしていたんだということに気づいた。
このことこそ人間の欲望の目標は彼がたまたま生まれ落ちた社会の大きなルールの中で形成されることの
生まれ落ちた社会の違いから来る欲望の違いの典型例だと言える。

私もこの違いで悩んだことがある人間だ。
なんでこんなに他の人と違うのだろうとよく考える。
そこでこの学びから悩んでいる人に伝えたいことは、
別にそれが全く悪いことではないし、
みんな違うというシンプルなことに正面から向き合って受け入れることの大切さだ。
これは私が尊敬する先輩がよく私に言うことだが
「輝、みんな違ってみんな良いやで。」先輩は私が他人の話をした時にいつもこの言葉を私に言う。
この言葉からもこの学びからも言えるのが、
生まれも親も違う以上、他人と違うのは当然であるところで、
それを受け入れて生きることで悩みが解決すると言える。


回答 4

設問1. 有限な生と「非知」

設問2. 私は野球という世界だけを見て教育界に飛び込んだ。
だから当時の欲望は「甲子園監督」だった。
しかし野球部から離れると世界が変わり私の欲望も変化した。
おそらく野球以外のルールの中で形成されたと考える。
つまり、欲望はルールがないところには生まれないということである。

学んだこととしては、その世界のルールを「変革」したり「継承」したりすることこそがエロスだと考える。
だからその世界のルールを知るところからエロスが始まることを伝えたい。


回答 5

設問1. エロスを「味わうこと」

設問2. 私はゴルフを12年間続けており、学生時代に目立った成績を出せないままプロを目指す事は馬鹿だと思われることが多い。
これは自分のエロスと他人のエロスの違いから生まれる事だと言える。
自分にとってのエロスはプロになることなので、
プロになる事にエロスを感じない人にとっては当然エロスを感じる事なく、ただの馬鹿だと思われてしまう。

この知見で学んだ事は、人によってエロスを感じる場面が異なり、
そのエロスが現実的ではないほど、他人は否定的な意見を持つという事である。
自分が気持ちよく生きていくためには、
他人のエロスとの違いを受け入れら自分がこだわっているエロスを追求することが必要だと伝えたい。